明治2年9月に築地に海軍操練所が創設されました。明治3年に海軍兵学寮と、明治9年に海軍兵学校と改称され、明治21年に江田島に移転され、海軍士官の養成学校として我が国の海軍を支えてきました。多くの旧幕臣が明治新政府に出仕し、日本の近代化に貢献したように、海軍兵学寮へも旧幕臣が出仕し、特に、静岡藩(徳川家)の沼津兵学校から教授赤松則良、教授山本淑儀、第一期資業生西尾政典など多くの優秀な人材が供出されました。
今回は、築地にあった海軍兵学校とともに、それに関係の深い沼津兵学校を紹介します。
■沼津兵学校
幕府は解体されたが、徳川家が移封された静岡藩では士官養成を目的とする兵学校を設立すべく、明治元年に沼津城二の丸の跡に沼津兵学校が開設されました。単なる士官養成にとどまらない時代の最先端を行く最高学府が沼津に誕生しました。
沼津兵学校の設立にし、阿部潜と江原素六が尽力しました。初代の学校長にし、当代きっての啓蒙学者である西周が就任しました。 資業生といわれる生徒は、徳川の藩士から試験により選ばれました。 試験は第一期から第八期まで行われ、200名ほどが合科し、資業生となりました。
学科には、英語・フランス語、漢学、数学、器械学、図画、乗馬、鉄砲術、操練などがありました。教授には、語学の渡部温(イソップ物語の翻訳者)や乙骨太郎乙がいました。普及していなかった数学を積極的に教えたため、「数学の沼津」といわれ、工兵関係の将校を多数輩出しました。
兵学校の評判が全国的に高くなり、人材の他藩への貸し出しが行われるようになり、次第に兵学校から優秀な人材が消えていきました。特に明治政府では、陸海軍兵学寮の設立が計画されると一層優秀な人材が引き抜かれていきました。明治5年5月に新政府の陸軍兵学寮に吸収され、3年余りで消えました、しかし、その人材は、陸海軍、官吏、教育界、経済界など広範な分野で活躍し、日本の近代化に貢献しました。
沼津城絵図歴史MAP
沼津兵学校観光
沼津駅南口の方面には、沼津城本丸跡である中央公園があります。沼津城ニ之丸御殿は徳川家・静岡が設置した沼津兵兵学校の校舎となり、近くに兵学校寄宿寮・付属小学校・医局・医学所も設置され、兵学校が使用した旧沼津藩の馬や馬場もありました。
大手町の城岡神社境内には、明治27年徳川家旧臣によって建てられた沼津兵学校の碑があります。
わずか4年の短期間だったが、次のような人がいます。
陸海軍(将校)では、井口省吾、加藤定吉、矢吹秀一、早川省義、赤松則良、黒田久孝、古川宣誉、西紳六郎、村田惇、向山慎吉、山口勝など多数、軍人以外では西周、田口卯吉、島田三郎、真野文二などがいます。
沼津市明治資料館ー沼津兵学校の資料が多く展示されている。
展示室
図書室
平成31年1月20日に沼津兵学校創立150周年記念式典が沼津市民文化センターで開催されました。
徳川宗家18代徳川恒孝当主の「沼津兵学校創立150周年に寄せて」、国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が「沼津兵学校から学ぶべきもの」と題してそれぞれ講演する。当日、「沼津兵学校記念誌」(1部1000円)の販売。
静岡藩を治めた徳川家が設置した沼津兵学校がことし創立150周年を迎え、20日、記念式典と同校付属陸軍医局(静岡藩立沼津病院)の記念碑除幕式(いずれも実行委主催)が沼津市内で開かれた。先進的な教育制度を実践し、日本の近代化に貢献する人材を輩出した同校の功績を知ってもらおうと企画した。
第18代徳川家当主徳川恒孝さんの長男家広さん(53)らを招き、病院跡地の市立第一小北側で沼津病院の記念碑除幕式を行った。病院の初代院長杉田玄端のひ孫鈴木富子さん(83)=東京都世田谷区=らも出席し、司会の合図で一斉に幕を引き下ろした。完成した碑を見た鈴木さんは「言葉にならないほどの感謝でいっぱい」と話した。
除幕式に先立ち行った式典では、家広さんと国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が記念講演した。家広さんは兵学校設置の経緯や教育内容などを説明した。樋口教授は自由貿易論を推進した田口卯吉や政界で活躍した元学生らを紹介した。反骨精神や外国語と異文化の学習など5点を挙げ、「兵学校からくみ取るべきものは無数にある」と強調した。
日本で初めての小学校が明治元年9月に沼津城内に代戯館として、のちに沼津兵学校付属小学校として開校し、沼津市立第一小学校として現在に至っています。
沼津に移住した旧幕臣は、苦しい生活の中にあっても子弟の教育には力を入れ、明治元年(1868年)9月、「代戯館」という学校をはじめた。添地にあった長屋を校舎にあて、ござをしき、黒板には雨戸を使うなど粗末なものであった。 12月には、沼津兵学校附属小学校に引き継がれ、日本最初の小学校とよばれる学校になった。
生徒は7、8歳以上の士族、庶民の子弟であって、学科は算術・地理・体操・乗馬・水泳などがあり、後に英語・フランス語も加わった高度の小学校であった。 明治5年(1872年)、「学制」が定められ、この小学校は、「集成舎」という学校になった。その後、「沼津黌」などと何回も校名を変えながら、統合・分立・新設などをくりかえしつつ、現在の第一小学校や第二小学校に発展していった。
築地にできた海軍兵学校
海軍兵学校沿革
草創時代
明治2年9月 18日(1869) | 東京築地安芸橋内に海軍操練所(海軍学校の前身)創設 |
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軍務官の実権者 大村益次郎が西洋式西洋式近代海軍学校を起こすべし
明治2年7月 兵部省が新設・海軍操練所創設
明治2年9月18日 海軍操練所を東京築地の元芸州屋敷・安芸橋内に置く(元中央市場の一角)諸藩進貢の海軍修学性(18歳~20歳ー大藩5名・中藩4名・小藩3名)
明治3年1月11日 海軍操練所の始業式挙行・海軍初めの式の起源となる。
明治3年2月23日 「千代田形」を海軍操練所付稽古鑑と定める。
明治3年3月 生徒2名に英鑑乗組を命じる。
明治3年5月 「海士の教育」は軍艦は海軍士官を以て精神とす。
明治3年11月4日 海軍操練所を海軍兵学校と改称する。寮生70余名・幼年生徒15那・壮 年性と29名を選抜し、全部官費で入寮。
明治4年1月8日 有栖川兵部卿臨場・生徒はこの日から金釦一行の短上着を着用
明治4年1月10日 「海軍兵学校寮規則」公布
明治 4年2月22日 海軍兵学寮生徒11名と軍艦生徒6名(東郷平八朗見習士官) 第1回海外留学生英米派遣
明治4年6月15日 「富士山」軍艦配置
明治4年8月5日 教官を武官とする。
明治5年2月27日 兵部省廃止に伴い、海軍省と陸軍省設置 海軍兵学寮は海軍省所管
幼年生徒は予科生徒・壮年生徒は本科生徒と改称。壮士気取の豪傑肌の生徒が多く帆風が漂っていた。歴戦の荒武者は戦場を知らない教官の拝斥を行い、教官室に闖入し、教官と格闘することもあったという。
明治6年7月 英国からアーチボールド・ルチアス・ダグラス海軍少佐他各科士官5名、下士官12名、水兵16名の教官団が着任したのを契機として、兵学校中牟田倉之助少将が海軍士官教育を一任。ダグラス少佐は「士官である前にまず紳士であれ」と、英国海軍士官流の紳士教育を前提とした。学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も抗議もすべて英語、しかも座学よりも実施訓練に重点を置く、教育方針を打ち出した。
明治6年11月19日 第1期卒業生2名
明治7年 学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も抗議もすべて英語、しかも座学よりも実施訓練に重点を置く、教育方針を実施。教育の成果が上がり、初級士官教育も本格的に軌道にのる。生徒に様式体育と遊戯を行い、日本初の運動会を開催。
明治7年11月1日 第2期卒業生17名 山本権兵衛・日高壮の壮之丞
明治9年8月31日 海軍兵学寮は海軍兵学校と改称
明治9年10月 海兵士官学校が海軍兵学校付属しなり、東京兵学分校と呼ばれる。
明治11年6月 本校機関科生徒全員を横須賀海軍兵学校付属機関学校に編入
明治12年 東京兵分校廃止で本校に編入
明治14年7月 海軍兵学校から分離独立して、海軍機関学校となる。
明治16年6月 東京で最初の赤煉瓦造である生徒館が新築落成のちに海軍大学校の校舎と使われた東洋一大きな2階建の堂々たるものであった。地続きにあった木造の海軍省が粗末で小さな物置のように見えた。設備内容も整った。
明治21年8月 (1888) | 海軍兵学校、江田島に移転 |
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幕府の海軍士官養成教育が軍艦奉行 勝海舟を筆頭に軌道を敷いていた路線を引き継いだ形となった。
幕臣から沼津兵学校から海軍に行った人材名簿
校長 矢田堀鴻 幕末の幕臣、海軍総裁、明治期の官吏
教授 赤松則良 明治期の海軍軍人(中将)。佐世保鎮守府司令長官
横須賀鎮守府司令長官、男爵
教授並 山本淑儀 明治期の海軍軍人(大佐)
生徒 中川将行 幕末の幕臣、明治期の海軍軍人、数学者
永嶺謙光 明治期の海軍軍人(少将)
向山慎吉 明治期の海軍軍人(中将)。向山黄村の養子、舞鶴
佐世保海軍工廠長、男爵
小笠原賢蔵 海軍操練所
横井時庸 海軍中機関士
付属小学校生徒 加藤定吉 明治期~大正期の海軍軍人(大将)、第二艦隊司令長官
呉鎮守府司令長官、男爵
西紳六郎 明治期~昭和初期の海軍軍人(中将)
佐世保鎮守府参謀長、侍従武官、馬公要港部司令官、男爵
沼津兵学校は陸軍養成が主な目的だったが、併せて海軍にも人材が活躍したということは近代的な兵法をフランスから学び、明治新政府がすぐ軍隊を構成できたのは、沼津兵学校の教育が先達にあったればこそと知った。
今までは徳川幕府が倒れて、明治政府に代わって幕府の人材はどうしたのかと思っていた。勝海舟・山岡鉄舟・榎本武揚等は活用された人材で有名であったが、明治新政府は幕府の人材を活用していたのだということも合わせてわかった。
(国立民族博物館教授 樋口雄彦様 沼津郷土史研究談話会様 沼津市明治史料館
木口 亮学芸員の了承を得て記事を記載しております。)