国学は日本の古典を学ぶもので、古事記や万葉集、源氏物語などは国学の発展によって真価を認められるようになったといわれている。賀茂真淵を師として集まった中央区ゆかりの門人たちに焦点を当ててみたい。
真淵は元禄元年(1697)、遠江国敷智郡(現
その後、日本橋小舟町の干鰯問屋村田春道宅にも身を寄せた。村田春海(はるみ)は父春道とともに入門し、苦学しながら歌を詠み「県居四天王」と呼ばれた。十八大通のひとりにも数えられ、八丁堀地蔵橋辺(現日本橋茅場町)にも住んだ。墓は深川本誓寺にある。
やがて八丁堀の町奉行所与力であり門人の加藤枝直(えなお)の屋敷地を借りて一家を構えた。その子加藤(本姓橘)千蔭(ちかげ)も入門し作歌にすぐれ、春海とともに江戸派と称された。著作に『万葉集略解』などがある。能書家としても知られ真淵の墓碑を揮毫した。また流麗な書体は「千蔭流」と呼ばれ、樋口一葉の筆致につながる。死後は両国回向院に葬られた。
真淵は、御三卿の田安宗武家に仕えた。この間に、伊勢松坂で本居宣長の訪問を受け、入門を認めたことが、その後の国学の隆盛を高めたことになった。宣長は土地の名家小津家の出身で、小津家は小津和紙(日本橋本町)のルーツといわれる。
真淵が浜町山伏井戸(現日本橋久松町付近)に居宅を移したのは晩年となった68歳の明和元年(1764)で、田舎風な佇まいから「県居」と名づけ、家号となった。340人ほどの門人たちを「県門(けんもん)」という。73歳で世を去り、品川東海寺に葬られている。(写真下左は、東海寺にある国指定史跡の賀茂真淵墓所、下右は千蔭筆による「賀茂縣主大人(うし)墓」碑)