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◆中央区 ここに歴史あり<21> ~賀茂真淵と門人たち~

[巻渕彰/写楽さい] 2010年5月20日 08:45

日本橋久松町の交差点近くに「賀茂真淵県居(あがたい)」説明板(写真上左)がある。江戸時代中期に発展した国学の研究拠点となったところだ。 

国学は日本の古典を学ぶもので、古事記や万葉集、源氏物語などは国学の発展によって真価を認められるようになったといわれている。賀茂真淵を師として集まった中央区ゆかりの門人たちに焦点を当ててみたい。

 

0913_21_100327kamonomabuchi.jpg真淵は元禄元年(1697)、遠江国敷智郡(現浜松市)に生まれ、荷田春満(かだのあずままろ)から国学や和歌、儒学などを学んだ。41歳のとき江戸に出て、神田明神の神主のもとに寄寓した。現在、同神社境内には「国学発祥の地」碑が建っている(写真上右) 

 

その後、日本橋小舟町の干鰯問屋村田春道宅にも身を寄せた。村田春海(はるみ)は父春道とともに入門し、苦学しながら歌を詠み「県居四天王」と呼ばれた。十八大通のひとりにも数えられ、八丁堀地蔵橋辺(現日本橋茅場町)にも住んだ。墓は深川本誓寺にある。

 

やがて八丁堀の町奉行所与力であり門人の加藤枝直(えなお)の屋敷地を借りて一家を構えた。その子加藤(本姓橘)千蔭(ちかげ)も入門し作歌にすぐれ、春海とともに江戸派と称された。著作に『万葉集略解』などがある。能書家としても知られ真淵の墓碑を揮毫した。また流麗な書体は「千蔭流」と呼ばれ、樋口一葉の筆致につながる。死後は両国回向院に葬られた。 

 

「甘藷先生」で知られる青木昆陽も真淵と親交があったといい、同じく前述の八丁堀・加藤家屋敷地に住んでいたとされる。「マルチ人間」の平賀源内も門人として学んだそうだ。

 

真淵は、御三卿の田安宗武家に仕えた。この間に、伊勢松坂で本居宣長の訪問を受け、入門を認めたことが、その後の国学の隆盛を高めたことになった。宣長は土地の名家小津家の出身で、小津家は小津和紙(日本橋本町)のルーツといわれる。

 

真淵が浜町山伏井戸(現日本橋久松町付近)に居宅を移したのは晩年となった68歳の明和元年(1764)で、田舎風な佇まいから「県居」と名づけ、家号となった。340人ほどの門人たちを「県門(けんもん)」という。73歳で世を去り、品川東海寺に葬られている。(写真下左は、東海寺にある国指定史跡の賀茂真淵墓所、下右は千蔭筆による「賀茂縣主大人(うし)墓」碑

 

 

 
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