東京駅八重洲口前のビル街に囲まれた場所に中央区立城東小学校は建っている。その歴史は明治初期にさかのぼり、校舎は関東大震災復興小学校として今日まで現存しているが、周辺街区の再開発計画に伴い、全国でも珍しい、ビルに入る小学校になるだろうと、今注目されている。この城東小学校の歴史をたどってみたい。(写真上は昭和4年(1929)竣工当時の京橋昭和小学校、写真下は面影を留める現校舎)
江戸時代、江戸城東方のこの一帯は、南北に東海道が通う通町筋。さらに東側は江戸湊に面し、天下普請の重要拠点だった。古地図の町名が記すように職人町として江戸の発展を支えたところである。
城東小学校は、明治6年(1873)12月開校の宝田小学校(旧京橋区本材木町三丁目、楓川沿い)が原点である。宝田と名乗ったのには、南伝馬町名主高野新右衛門が江戸城内だった宝田村から移されたことによるだろう。
その宝田小学校から分離して、明治39年4月に開校したが南槇町小学校(旧京橋区南槇町4)であった。現城東小学校があるこの場所である。大正12年の関東大震災で両校を始め区内の小学校はことごとく焼失した。
東京市の帝都復興計画で復興小学校の建設が実施されるにあたり両校は併合して京橋昭和小学校として再建される。当時の東京市資料によると校地面積は1051坪、鉄筋コンクリート造、3階建、竣工は昭和4年(1929)3月、竹田組施工とある。
戦後になり京橋昭和小学校は、昭和37年に日本橋城東小学校(旧日本橋2-6、丸善裏)と併合して、現在の城東小学校になった。校名は「旧江戸城(皇居)の東に位置し、朝のぼる太陽のごとく、隆盛を祈念する」と願って命名された。
現校舎は当時の復興小学校のままで、歴史を伝える近代化建造物である。区内には復興小学校7棟が現存し、そのうち小学校として使われているのは4校だけで、その1校の建物が、87年の歴史を刻んで消えていくことになる。これからの新時代に向かって、ビル内の新校舎に期待したい。@巻渕彰