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桶町千葉のなごり

[小江戸板橋] 2018年8月18日 12:00

剣道の初心者が、入部の動機を話してくれた。

「幕末、各藩の志士は、剣を交えることで互いに相手を理解し意思疎通を図った。それがどういうものか、自分も体験したいと思った。」

ほぉ、すごいな。

単純に時代劇にあこがれて剣道を始めた自分との違いに、感じ入ってしまった。

 

江戸時代、藩は独自の統治を行い、育まれた文化も違う。

異文化の中で育った人物同士が、相手を知る手段として剣術を活用したことは、武家政権の下では自然な成り行きだったのだろう。

幕末の緊張感が張りつめた時代にあって、江戸の町に多くの道場が営まれ隆盛したことは、その証しだともいえる。

 

八重洲二丁目八番。

鍛冶橋通りに面した、東京スクエアガーデンの手前に、「千葉定吉道場跡」の案内板が建てられている。

千葉周作が創始した、「北辰一刀流」。

合理的な指導法によって、門人は6千人を超え、近代剣道の礎を担った流派である。

千葉定吉は周作の実弟で、桶町と呼ばれたこの周辺に道場を構えていた。

土佐藩の坂本龍馬が江戸に剣術修行に来た折、入門したのが桶町千葉、千葉定吉道場である。

龍馬を指導したのは、主として定吉の長男で道場を任されていた12歳年上の重太郎であったようだ。

後に龍馬は、桶町千葉の塾頭にまでなっている。

 

土佐藩の上屋敷は東京国際フォーラムの場所に、中屋敷は中央区役所の場所にあった。

龍馬が起居したのは、土佐藩中屋敷の長屋と考えられるので、現代の新富町から京橋まで、時には竹刀・防具をかついで通っていたのだろう。

私の妻は、ドラマの役者さんがそのまま実在の人物と思い込む傾向がある。

こうした話をすると、大河ドラマ「龍馬伝」の福山雅治さんが、京橋周辺を剣道着を着て歩いていたのだとイメージしてしまう。

近いうちに、福山龍馬は、小栗龍馬に変わるかもしれないが。

 

龍馬さんはとてもモテたようである。

男というものは、勢いづくといかにモテたかを吹聴したがるものだが、龍馬の手紙にもそうした記述が残っている。

千葉定吉の娘の佐奈さんは、免許皆伝、才色兼備の「千葉の鬼小町」と名を轟かしていた。

そして龍馬の婚約者だったといわれている。

時代を動かしていく人物は、多くの人を魅了し、連鎖を生み出すパワーを持っていたものだ。

 

千葉定吉、千葉重太郎の墓所は、豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。

 

 
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