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リーフデ号と航海者たち

[与太朗] 2011年2月 1日 10:00

IMG_0389.JPG 間寛平さんがマラソンとヨットで二年以上の苦闘の末、世界一周のゴールを迎え、大歓声を浴びていたTVを見て、リーフデ号を思い起こしました。約400年前、オランダ船リーフデ号は東洋への新しい商品販路を求めて出航、約二年の航海の末、豊後佐志布(大分県臼杵市佐志生)に漂着します。航海士のイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンはともに徳川家康の外交顧問として重用され、アダムズは按針町に、ヨーステンは八重洲の語源となった八代洲河岸に屋敷を与えられたので、中央区のみなさんもよくご存知のことと思います。諸処に記念碑も建てられていますが、リーフデ号の漂着は日英、日蘭の修 IMG_0398.JPG好史の第一頁を飾る大事件だったのですね。以下、これにちなんだことを思いつくままに書いてみます。

 「慶長五年(1600)暴風で豊後の海岸に漂着した」とあっさり書かれた記述をよく見かけますが、1598年6月ロッテルダム出帆以来の航海は過酷の一言。厳しい天候、風と浪、食料欠乏、脚気に壊血病、餓死に凍死、敵国ポルトガル支配地の島民との戦闘・・・波瀾万丈を絵に描いたようなものでした。5艘のガレオン船の艦隊は当初の喜望峰回り東洋行きから、マゼラン海峡(ここで5カ月越冬する破目に)経由日本行きに変更をします。結局日本にたどり着いたのはリーフデ号のみ、それも110名の乗組員が漂着時には生存者わずか24名(翌日にはさらに3名死亡)、立ち上がれる者は6名という悲惨な航海でした。このあたりはアダムズの書簡や伝記にあるほか、白石一郎さんの小説『航海者』にも描かれています。

IMG_0387.JPG ウィリアム・アダムズは「日本に来た最初のイギリス人」といわれ、これをタイトルにした本も出ています(P・G・ロジャーズ著)が、異説もあるようです。鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交』では、アダムズが来る20年前の天正八年(1580)イギリス人が肥前平戸に来日し、およそ20年間通商が行われたという『古事類苑』の記述を紹介しています。(1947年英軍が伊東市に建てたアダムズの記念碑は「日本に最初に定住した英国人」という表現になっているようです。) また同著によれば、日本ではリーフデ号は「漂着」といわれるが、オランダ史上では、目的意識を持って日本を目指したものであるから「到着」と記されているのだそうです。なるほど!

IMG_0386.JPG リーフデ(慈悲、愛の意)号はもとエラスムス号と呼ばれ、船尾にエラスムスの木像が付けられていました。この木像は漂着後外され、栃木県佐野市の龍江院に長年祀られ、現在は東京国立博物館に保管されています。乗組員同様あるいはそれ以上の数奇な生涯ですね。千代田区丸の内にあるリーフデ号の記念像にはエラスムス像とおぼしきものがしっかり付けられています。芸が細かい!

 ヤン・ヨーステンの屋敷は馬場先門と和田倉門の中間、内堀東岸の八代洲河岸にあったといわれているので、残念?ながら中央区内ではありませんが、千代田区からは消えた「八重洲」の地名を中央区が戦後町名として使用したため、彼の記念碑が八重洲通りの中橋交差点中央分離帯と八重洲地下街の二か所にあります。(しかも両方とも肖像付き。ちなみにアダムズの方は肖像が残されていないそうです。) うっかりすると将来ヤン・ヨーステンの屋敷は中央区八重洲にあったと IMG_0390.JPG誤解する人が増えるかもしれませんね。八重洲地下街の記念像は場所が転々、「漂流」していたようですが、八重洲南口ラーメン屋さんの隣に安住の地を見つけたようです。蛇足ながら、『江戸名所図会』の八代曾河岸の項ではヤン・ヨーステンが「ヤンヤウスハチクワン」と(おそらく誤って)表わされているため、八官町の名の元となった八官と同一人物と誤解する説があるようです。同じ斎藤月岑も『武江年表』でははっきり別人として書いています。ヤン・ヨーステン(耶揚子)はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインというのが正しい?名前のようです。

 

IMG_0394.JPG【写真】上から

 ・和田倉門から馬場先門をのぞむ

 ・按針町(日本橋室町一丁目)のアダムズ屋敷跡

 ・丸の内二丁目にあるリーフデ号記念碑

 ・同じく船尾のエラスムス像

 ・八重洲通りのヨーステン記念碑

 ・八重洲地下街のヨーステン像

 

 
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