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築地路地裏の永井荷風

[与太朗] 2014年7月31日 09:00

IMG_0899.JPG 『つゆのあとさき』、この時期になると思い出す小説のタイトルです。作者は永井荷風(1879-1959)。荷風は「小説の題名あまり凝りすぎたるはいやなり どうでもよきは猶更いやなり」と言っていますが、まさにそのとおりのステキなタイトルですね。 (さだまさしに同名の歌がありますが、この小説のタイトルが頭にあったのでしょう。)

 荷風が昭和34年、市川の自宅で孤独のうちに死を迎えて今年で55年、小説『すみだ川』『濹東綺譚』、随筆『日和下駄』、日記『断腸亭日乗』等々、近年ますます読者層が広がり、以前は皆無といわれた女性読者も増えている由、ご同慶の至りです。

 ところで荷風の住まいといえば、麻布市兵衛町の「偏奇館」、牛込余丁町の(『監獄署の裏』の)「断腸亭」、小石川金富町の(『狐』の)生家などが有名ですが、われらが中央区内にも短期間ですが、築地界隈路地裏に三度、居を構えたことはあまり知られていないようですね。

IMG_0901.JPG 大正4年(1915) 5月、荷風は余丁町の亡父の家から京橋区築地一丁目六番地(現・築地二丁目7)の借家に移ります。二階は10畳、6畳、階下は8畳、6畳、3畳で家賃は26円、奥隣りに清元の師匠梅吉の住居がありました。同年9月、離婚した芸者八重次(のちの藤蔭静樹)と再び同棲すべく宗十郎町九番地(現・銀座7丁目5)の彼女のもとに移ります。

 次は大正6年(1917) 9月、余丁町の家から出雲橋近くの木挽町九丁目(現・銀座7丁目15~18) の路地、格子戸づくりの二階家に移り、「無用庵」と名付けます。中洲病院の大石医師にいざというときに往診が受けやすいというのが借家の理由でした。このころ『断腸亭日乗』が始まり、それは死の前日まで書き続けられます。

 大正7年(1918) 年末、荷風は余丁町の旧宅を総額26,264円22銭で売却し、築地本願寺裏の築地二丁目三十番地(現・築地3丁目10、11) の路地裏の売家を2,500円で買って移り住みます。ここにはほぼ一年半。大正9年5IMG_0897.JPG月に麻布市兵衛町一丁目六番地の崖上の借地に新居「偏奇館」が完成して築地を離れることになります。

 下町の風情・情緒を愛した荷風ですが、実際に住んでみると、近すぎる人間関係やら、路地裏のむさくるしさやら、騒がしい町の悪太郎やらに耐えられず、「樹木多き山の手」に戻っていきました。

 現在の築地はご承知のとおりの繁華の街、三味線の音が聞こえた当時の佇まいを偲ぶのは至難ですが、荷風ファンの方、歌舞伎見物や築地グルメ散歩などの機会にぜひ一度歩いてみて下さい。折よく恒例の築地本願寺の納涼盆踊り大会が8月2日まで行われます。ここには築地の名店の出店があり、「日本一おいしい盆踊り」といわれます。見物前に偉大なる散歩者荷風が住んだ界隈を散歩するのもいいですね。

 

 【写真上】 旧・築地一丁目六番地のあたり

 【写真中】 出雲橋跡から旧・木挽町九丁目をのぞむ

 【写真下】 旧・築地二丁目三十番地のあたり

 

 

 
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