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『堀部安兵衛武庸之碑』 と細井広沢

[与太朗] 2015年2月 1日 09:00

IMG_1079.JPG 赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、上野介の首級をあげたのは元禄15年12月15日の未明、西暦では1703年1月31日、312年前のちょうど今時分のことでした。この年はとりわけ寒気が厳しかったそうです。

 ところで四十七士の中で首領大石内蔵助と並んで知名度No.1、人気投票・総選挙をすればトップ当選確実なのが堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670-1703)。彼はご存知高田の馬場の決闘助太刀のヒーロー、赤穂事件でも仇討急進派として奮闘、死後は芝居・講談・映画の世界で生き続けます。最近も企業PRのテレビCMにタイムスリップして登場し、ビックリさせられました。

 そんな彼の事績を刻した『堀部安兵衛武庸之碑』を当中央区、亀島橋西詰でご覧になった方も多いことでしょう。(八丁堀1-14) 昭和44年、八丁堀一丁目町会が建てたものだそうです。なぜここに建っているのでしょうか。碑には、「安兵衛が京橋水谷町の儒者細井次郎大夫家に居住したとあるので、どうやらそれが基のようです。八丁堀一丁目・二丁目には江戸時代、「水谷町」がありました。ただし「京橋水谷町」というのはそこではなく、現在の銀座一丁目にありましたが(水谷橋公園のあたり)、火事になり、享保4年(1719)八丁堀に移転になります。したがって安兵衛存命の元禄時代にはまだ八丁堀の水谷町はありませんでした。八丁堀一丁目町会の方々は水谷町の故地、京橋の水谷町に安兵衛が住んだことがあるということで(おそらくごく短期間だと思われますが) 建碑したのでしょうね。

 堀部安兵衛というと「けんか安兵衛」とか大酒呑みのイメージがありますが、至極柔和で小児を可愛がり、言い尽くせないほど貞実な人物、とか、義父弥兵衛に血のつながりはないのに手蹟、物腰、志までよく似ている、とかの評が残されており、決して伝えられるような粗暴な若者ではなかったようです。(弥兵衛同様下戸だったという説もあります。) そんな人柄が周囲に愛されて人気者となり、後々の昭和の建碑にもなったのでしょうか。

 

 さて、京橋水谷町に住んでいたと碑文にある細井次郎大夫(号は広沢)(1658-1735)ですが、儒学者、書家、篆刻家として歴史に名を留めていますが、その他天文・測量、剣術、柔術、弓術、馬術、軍学、鉄砲・火術、彫金、和歌、謡、能、俳句、等々  文武全般にわたり極意をきわめたスーパーマルチ人間でした。12歳年下の安兵衛とは剣術念流の堀内源左衛門道場で知り合い、以後変わらぬ深い親交が続きます。討入りに際しても徹底サポートで、堀部父子に討入りの趣意書「浅野内匠家来口上」の文案について意見を求められています。討入り当夜は深川八幡町の自宅の屋根に上り、本所吉良邸に(不首尾の場合の)火の手があがりはしないかと明け方まで起きていたそうです。義士切腹後には重要史料の「堀部武庸筆記」や安兵衛の遺品(籠手)などが広沢に託されました。

IMG_1084.JPG 細井広沢一族の墓は世田谷等々力の満願寺にあります。(国指定史跡) 山門の扁額「致航山」は広沢の書、本堂の「満願寺」は子の書家九皐の書。この寺は世田谷吉良氏の開基、彼が支援した討入りの仇役上野介と同族なのは奇縁? です。勝海舟は晩年、江戸時代以降の傑出した人物の一人に細井広沢をあげ、「書に隠れたから人が知らない」と評し、書家としての名声のみ高くて人物が正しく評価されていないと、彼を高く評価しています。若い頃、日本橋馬喰町に住んでいたのは確かなようですから、区内に彼の顕彰碑も建つといいですね。

 

 【蛇足】 細井広沢の屋敷が京橋水谷町にあったということ、また堀部安兵衛がそこに住んだということ、広沢の伝記、年譜や義士関係の書に見つけられませんでした。碑の文章を裏付けられるものをご存じの方、ご教示ください。

 

 【写真上】 亀島橋西詰の『堀部安兵衛武庸之碑』

 【写真下】 満願寺の細井広沢の墓     

 

 

 
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