[下町トム]
2010年3月30日 11:15
「銀座」という地名は何度かの住所表記変更でエリアを広げてきましたが、何と言っても中央区の、いや日本のメインストリートとしての存在感を示してくれています。
「銀座」の南の端はどこでしょうか、と銀座通りを歩いていくと、新橋駅の手前で高速道路のガードをくぐり、港区に入っていきます。ここが区境ですね。
ここにはかつて汐留川が流れ、「土橋」という橋がかかっていたそうです。「土橋ランプ」という高速道路の出入り口に名残を残しています。(写真は港区側から銀座方面を望む)
川に囲まれたかつての中央区の水郷ぶりをしのびつつ、今日も〝銀ブラ〟を楽しむことにしましょう。
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[巻渕彰/写楽さい]
2010年3月15日 09:20
江戸期、「鎧の渡し」は日本橋川で唯一の渡し場であったが、伝説に満ちた場所でもある。
ご存知のように『江戸名所図会』には、永承年間(1046-53)源義家が奥州征伐で下総国に渡ろうとしたとき暴風に遭い、鎧一領を海中に投じて竜神に手向け、それを鎮めようと祈願したところ、渡ることができたので「鎧の淵」と伝えられたとか、その義家が奥州征伐から凱陣のとき自らの兜を納めたのが兜塚(兜神社、兜町の由来とされる)とか、また、藤原秀郷が平将門を討ち、その兜を埋めたところとか、いわれている。
伝説の平安時代、この地はどんなところだったのだろうか。日本橋川(平川)の整備やこのあたりの土地造成は江戸初期とされるので、それ以前の中世の地形に思いを馳せる。都内には義家や将門伝説があちらこちらに存在するので、そのひとつといえよう。
文化期(1818-30)ごろにはこんな"願掛け"があったそうだ。「鎧の渡しの真ん中の水に、疱瘡や麻疹、百日咳での願をかけると、叶う」という。どういうことをするのかはわからないが、この水を汲んで御利益を願ったのだろうか。この種の願掛けは、「京橋欄干の真ん中の擬宝珠に縄をかけると頭痛に効く」とか、「高尾稲荷では頭痛に櫛を供える」とか、の伝説が知られている。
区の説明板「鎧の渡し跡」(写真上右)に載っている「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」の狂歌は、「おもだか」は近くの坂本町植木店(たな)か茅場町薬師の縁日で買った「おもだか=面高=慈姑(クワイ)に似た水草で、葉が矢尻の形をしている」と「おもだか=沢潟=源氏伝来の鎧八領のひとつ」を懸けたもので、伝説を受け、川面に逆に映った葉が沢潟文様に見えたことを詠んだものであろうか。
渡し廃止後の鎧橋は明治5年(1872)創架で蛎殻町方面と茅場町・八丁堀方面が繋がり、付近の商業が栄えた。明治21年(1888)鋼鉄トラスト橋に架け替え、昭和32年(1957)現橋の姿になった。いま、注目の個所が橋台にある。表面仕上げで端正に組み上げられたレンガ積みが見られる(写真下左)。これは「イギリス積み」と呼ばれ、明治期の橋台といわれている。レンガを長手(幅が広い面)の段と小口(幅が狭い面)の段が交互に積まれているのが特徴である。鉄道橋梁や土木構造物によく見られる積み方とされ、フランス積みのあとに普及したそうだ。