[銀造]
2012年12月27日 08:30
2012年12月20日(木)は、12:00から聖路加看護大学 聖歌隊と手話部の皆さんによる、「クリスマス・ソング」が披露されました。 手馴れた手話で気持ちを表現する彼女達、澄んだ声で合唱する姿に感動しました。 (肖像権保護のため、解像度は落としてあります)
その後のミニ講座は、先月に引き続いて、健康講座「健康はお口から」と題して、滝本真弓(歯科衛生士)さんによる、大変有益な歯科衛生の講義がありました。 歯は、80歳まで20本あれば、健康に生活できるので大切にしましょう、舌も柔らかいブラシで掃除をしましょうとか、歯周病の注意など教えていただけました。
1月のイベントは、1月17日(木)12:30から、健康講座「足の体操」、12;50からは、寄席が開演。演目は「愛宕山」で、三朝亭 半左さんによるお噺です。 楽しみですね。 健康は笑いからなどと申します。 足で歩いて、笑えば、健康間違いなし! 是非、お出かけ下さい。 最寄り駅は、地下鉄日比谷線築地駅、有楽町線 新富町です。 詳細は、こちらをご覧下さい。http://rcdnp.slcn.ac.jp/lukanavi/
[銀造]
2012年12月26日 08:29
築地6- 2- 6 の おでんの たま さんの向かいの、@Bar SiSi Tsukiji にて、 一週間限定で
「THE LAST ART SESSION 築地獅子展」 と銘打って、波除神社の獅子を題材にした絵画と缶バッヂの展示販売がされています。お気に入りの写真を持参すると、缶バッヂに加工もしてくれます。 これも築地のまちおこしの一つかなと思い、ご案内する次第です。 素敵な作品の一つをご紹介します。 岩井智昭さんの作品です。 お見逃し無く!
[ukiuki]
2012年12月25日 13:00
地元民として、こんな使い方をさせてもらってます。
①一階のスターバックス。
クリスマス時期は、飾りが綺麗です。
②地下にある売店では、まい泉のカツサンドや、有名店のお弁当が買えます。
品揃えもなかなかですし、売店にはあまり見ない甘いものも置いてあります。
③三井住友・東京三菱UFJ銀行のATM
1階にあります。空いていてとてもありがたいです。
明石町を散策される際にはどうぞご参考に。
[事務局スタッフ]
2012年12月24日 09:00
[銀造]
2012年12月19日 08:30
築地6丁目12-3 の若松屋さんで、志村観行 陶展 「豆皿百趣」其の参 が開催されています。 朝11時から18:30の時間帯にご覧になれます。 最終日の12月22日(土)は16:00までです。案内のハガキによれば、
5年前編集者である片山さんの紹介で、つきじTASSギャラリーを訪れた。 関東大震災後の商店に用いられた看板建築と呼ばれる洋風レトロな建物とモザイクタイルの床に魅かれ、店主の佐藤さんと企画展を約束したまま漸くの個展である。DEEP築地の特異な様式美を持つギャラリーで、床に敷き詰められたモザイクタイルの邪魔にならないように、僕は壁面を使う事にした。しかし、より不思議な空間になることは間違いない。 伊豆高原 海座工房 志村観行・・・・・・・・とあり、人と人との出会いとつながり、絆を感じさせます。 展示されている作品の一部を次に紹介します。
私の気に入ったのを選んで、撮影させて頂きました。左から、烏賊、ご多幸あり、サボテンとギター、干支の巳をデザインした絵皿など。 ぜひ、ご覧にお出かけ下さい。
若松屋さんの詳細とアクセスは、こちらをご参照下さい。http://www.g-wakamatsuya.com/
[下町トム]
2012年12月12日 13:00
区内の寺社を吟行気分で巡る一風変わった散策シリーズの第7回です。
今回は『築地本願寺』です。江戸開府まもなくの元和3(1617)年に当初は浅草・横山町に京都・西本願寺の江戸の別院として建立され、「江戸・浅草御坊」として親しまれました。しかし、かの有名な明暦3(1657)年の〝振袖火事〟で消失してしまったのです。区画整理のため幕府が代替地として指定したのが現在の築地でした。
佃島の住民が浅瀬を埋め立てて土地を造成しました。〝築地〟という地名もここから生まれました。かくして新たな寺院が完成し『築地御坊』と呼ばれて長く江戸市民の崇敬の地となったのです。以来、佃島とは縁が続き、慣例として本堂の賽銭箱は佃の有志が寄贈しています。
錦絵にも残る伝統的な寺院建築を誇った『築地御坊』でしたが、大正12(1923)年に関東大震災に見舞われ、またも消失しました。そこで名建築家・伊藤忠太博士の設計により仏陀の故郷である「インド様式」の石造りという、日本の仏教寺院としては珍しい建物が昭和9(1934)年に落成しました。平成23(2011)年には、本堂ならびに石積塀が国の登録有形文化財に指定されました。東京を代表する屈指の名刹のひとつです。
宗派としては、浄土真宗本願寺派・築地別院というのがこれまで正式名称でしたが、今年、正式に同派の直轄寺院として位置づけられ『築地本願寺』が正式名称になりました。もともと昨年は、開祖・親鸞聖人の750回忌にあたったこともあり、今年にかけて本堂修復などの記念行事が続いています。今年11月には〝キズキナサイ2012〟という記念イベントも催され、全国の〝ゆるキャラ〟が集まって銀座をパレードするという賑やかな一幕もありました。
本堂は修復され、金箔も鮮やかに張りなおされ、一層神々しくなりました。法要の際には多くの善男善女が集まり、おごそかな雰囲気が広がります。本堂後ろには、仏教寺院としてはこれも珍しくパイプオルガンが設置されており、毎月最終金曜日(12月は21日)のお昼、12:20~12:50に入場無料の「ランチタイムコンサート」が開かれていますので、お近くにお越しの節は是非訪ねてみて下さい。
今月この寺院をとりあげたのは、実はほかにも理由があります。それは『忠臣蔵』です。ご存知のとおり、今から310年前の元禄15年12月14日(新暦では1703年1月30日)に、赤穂浅野家の遺臣が仇敵・吉良上野介を討ち取ったというあまりにも有名な事件がもとになり、芝居や講談、浮世絵などでもてはやされました。
史実では、本所松坂町での討ち入りの後、赤穂浪士たちは両国橋を渡ることを許されず永代橋を渡り、現在の明石町にあった旧浅野家江戸屋敷の前で敬礼をしてから、築地御坊の門前(当時は現在の晴海通り側が正面でした)を通って、汐留から泉岳寺方面に向かったと言われています。
浪士のひとり、槍の名手・間新六は築地御坊の前を通りかかったときに、愛用の槍に書状と金子を結びつけて供養を願ったといわれています。そのゆかりの槍はいまでも同寺院で大切に保管されています。
間新六は同寺院とゆかりが深かったらしく、後に遺骸が引き取られて埋葬されました。もちろん泉岳寺にも墓碑がありますが、他の浪士と別に同寺院に埋葬されたというのは生前から信仰が篤かったのでしょう。現在ももちろん、築地本願寺の境内に間新六の墓碑があり、脇に説明版が設置されています。
赤穂浪士たちが本懐を遂げたときの道中の心持ちとはどのようなものだったのでしょうか。今の時代となっては〝仇討ち〟が必ずしも賞賛されないとしても、当時の道徳意識としてはまさしく「晴れ晴れとした」気持ちだったのではないかと推察します。
その当時も朝の築地の町に本願寺の鉦の音が響いていたのかと思うと、300年以上の月日を隔てて、何か心情が深まります。
今年も『忠臣蔵』の季節が来て、一年が終わろうとしています。平和な時代が続くように祈るばかりです。
・・・空冴えて覚悟の朝に弥陀の鉦
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