数ある江戸絵図の中で、内容が確実な最古のものは「寛永江戸図」とされています。
図の中央下部、やや右寄りに二つの島が並び、その間に「新堀」の書き込みがあります。
新堀は現在の日本橋川の河口部分、左が霊岸島、右が箱崎のある「永久島」ですが、永久島には、駿河大納言様御蔵屋敷、向井将監下屋敷、その左側に「町や」と書き込まれています。
図は[中央区沿革図集・日本橋篇」所載のものを参照しましたが、寛永9(1632)年頃の江戸市街の姿を写したものとみられ、この時期までに、島・町はすでにできていたことは確実です。
一方、「中央区年表」元和6(1620)年の項には、この頃新堀を開削、町家を立てたという意味の記述がありますが、これは「東京府志料」に基づくもので、この時期に、この島には北新堀町と箱崎町がすでにあったことを反映していると見て間違いはないでしょう。
元和年間の創設とあれば、いわゆる「江戸古町300町」に名を連ねていたのは当然のことでしょう。