新大橋の創架は元禄6年(1693)という、決して「新しい大橋」でなく「古くからの橋」である。先に通じた両国橋が当時「大橋」と呼ばれたことから、その次に架けられたので「"新"大橋」と名付けられたという。松尾芭蕉は開通にあたり、
ありがたや いただいて踏む はしの霜
と詠んだ。歌川広重が京橋・大鋸町(おがちょう)で描いたであろう『名所江戸百景』「大はしあたけの夕立」は西洋美術の世界にジャポニズム旋風を起こした。
明治45年(1912)7月に竣工した旧新大橋は、以前の木橋から約200m上流に架けられ、鋼鉄製ピントラスト構造で全長173.3m。設計は現日本橋の銘板にも名を刻む東京市の技師・樺島正義であった。
路面は厚い鉄板の上にコンクリート打ち、アスファルト仕上げだったようで、関東大震災のときでも、この橋は焼け落ちることなく、また、警察官の機敏な誘導などによって多くの避難者を救ったという。西詰北側の
撤去された旧橋梁のうち中央区浜町側の一部は明治村(愛知県犬山市)に移設されたが、橋名板は
現在、だれでも見ることができる江東区側の橋名板は同区立八名川(やながわ)小学校の北側に設置されている(写真上)。鋳鉄製で大きさは縦135.3cm、横273.5cm。中央に仮名書きで右から「志ん於ほはし」(「しんおおはし」の変体仮名)と痕跡が分かる。さらにその下にはローマ字で「SHIN・O・HASHI」と刻されている。周囲の飾りはほとんど剥がれてしまった。旧橋の名残は東詰南側にも照明橋柱の1基が残されている(写真下)。
現在の橋梁はシンプルな斜張橋であるが、これまでの歴史ある橋としての貴重な遺産がそこにあった。
■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>