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◆中央区 ここに歴史あり<6>~旧「新大橋」の橋名板~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月16日 18:30

現在の新大橋は昭和52年(1977)改架されたが、その前の明治45年(1912)に架けられた旧新大橋の橋名板(きょうめいばん)を間近に見ることができる。とはいっても、中央区側の新大橋の橋名板」は区民有形文化財であるが、残念ながら一般公開されていないので、今回紹介するのは、 江東区側のものである。


新大橋の創架は元禄6年(1693)という、決して「新しい大橋」でなく「古くからの橋」である。先に通じた両国橋が当時「大橋」と呼ばれたことから、その次に架けられたので「"新"大橋」と名付けられたという。松尾芭蕉は開通にあたり、
  ありがたや いただいて踏む はしの霜
と詠んだ。歌川広重が京橋・大鋸町
(おがちょう)で描いたであろう『名所江戸百景』「大はしあたけの夕立」は西洋美術の世界にジャポニズム旋風を起こした。


0913_6_090620_shin_ohashi01.JPG 明治45年(1912)7月に竣工した旧新大橋は、以前の木橋から約200m上流に架けられ、鋼鉄製ピントラスト構造で全長173.3m。設計は現日本橋の銘板にも名を刻む東京市の技師・樺島正義であった。


路面は厚い鉄板の上にコンクリート打ち、アスファルト仕上げだったようで、関東大震災のときでも、この橋は焼け落ちることなく、また、警察官の機敏な誘導などによって多くの避難者を救ったという。西詰北側の 中央区側に、「震災避難記念碑」と「人助け橋のいわれ碑」がある。そして戦災も乗り越えたが、老朽化により昭和49年(1974)に撤去・改架がはじまった。


0913_6_090620_shin_ohashi02.JPG撤去された旧橋梁のうち中央区浜町側の一部は明治村(愛知県犬山市)に移設されたが、橋名板は 中央区側 の漢字表記と江東区側の仮名表記のものがそれぞれ保存されている。


現在、だれでも見ることができる江東区側の橋名板は同区立八名川(やながわ)小学校の北側に設置されている(写真上)。鋳鉄製で大きさは縦135.3cm、横273.5cm。中央に仮名書きで右から「志ん於ほはし」(「しんおおはし」の変体仮名)と痕跡が分かる。さらにその下にはローマ字で「SHIN・O・HASHI」と刻されている。周囲の飾りはほとんど剥がれてしまった。旧橋の名残は東詰南側にも照明橋柱の1基が残されている(写真下)。


現在の橋梁はシンプルな斜張橋であるが、これまでの歴史ある橋としての貴重な遺産がそこにあった。 


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>