寛文12年(1672年)、漂泊の俳聖・松尾芭蕉(当時の俳号は宗房、
29歳、1644~1694)は、俳諧師として立つべく伊賀上野を出発、
江戸へ下ります。
延宝3年(1675年、32歳)より桃青の俳号を使用。
杉風、基角、嵐雪ら門人、名主、有力商人たちと研鑽を重ね,支援を
得て蕉門を確立させます。
延宝6年、宗匠として立机。
延宝8年、深川の草庵に隠棲するまで、短い期間ですが、ここ
本小田原町(日本橋室町1丁目)の小澤太郎兵衛(俳号・卜尺)店
に住み、
延宝7年歳旦、桃青36歳、この一句を吟じます。
「発句なり 松尾桃青 宿の春」
日本橋北詰のむろまち小路、「日本橋鮒佐」店先。
句碑は芭蕉が日本橋にその足跡を残したことを印しています。
芭蕉の重要な作品、『野ざらし紀行』、『笈の小文』、そして紀行文学の
最高傑作『奥の細道』は、深川の芭蕉庵転居以降の執筆となります。
芭蕉にとって、日本橋時代は、その後の活動の為の揺籃期であり、
次の飛躍への準備期間となりました。