中央区沿革図集・日本橋篇所載の御府内備考をもとに、江戸中期以降の箱崎地区をめぐる変化の跡をまとめれば大略次の通りです。
延宝 7(1679)年:湊橋架橋、霊岸島と初めて直結。
元禄11(1698)年:永代橋架橋、隅田川対岸の永代島と初めて直結。
豊海橋架橋、永代橋西橋詰に広小路。
同 17(1704)年:永久橋架橋、蛎殻町と初めて直結。
享保18(1733)年:箱崎町・永久橋間の河岸地745坪を埋立。
従来の箱崎町を1丁目、新埋立地を2丁目に。
天明 5(1785)年:箱崎町2丁目河岸先304坪埋立完了。
元禄11年の永代橋架橋により、北新堀通は日本橋方面と、富岡八幡宮や深川不動尊(永代寺)などの名所、さらには、門前仲町辺の岡場所などの盛り場とを結ぶ最短ルートとなり、人通りはかなり多かったといわれています。
元禄15年12月15日、本所松坂町吉良邸に討ち入り上野介の首級を挙げ本懐を遂げた赤穂浪士47人の引き上げ経路は、両国橋袂から隅田川左岸を南下、永代橋で隅田川を渡り、箱崎地区(北新堀町)に入っています。
以後の経路が豊海橋経由か湊橋経由かは判然とはしませんが、彼等がこの地区に足を踏み入れたことだけは確かです