明石町に「電信創業之地」碑がある(写真上)。わが国で最初に電気通信が行われたのは、明治2年12月25日(1870年1月26日)で、この近くにあった東京築地運上所(跡地に碑石あり)と横浜裁判所(写真中央は、横浜地方検察庁前の記念碑)に設けられた「伝信機役所」間を結んだものであった。
明治2年9月19日(1869年10月23日)から工事が始まり、わずか3カ月ほどで、東京・横浜間の約32kmに電信柱593本を建てたという。およそ50m間隔に1本の割合で電信柱が建てられたのだから林立の感であっただろう。さらに、当時の記録写真を見ると、架線の本数がやたらに多いのが印象的だ。人々は、文字が電線を伝わって行き来するのが見えるのだろうか、と大騒ぎだったという、笑い話がある。
今でも電信柱と呼んでいるのは、これが事始めだったのだろう。当時は「電信」ではなく「伝信」といわれたようだ。「以心伝心」からか、「信(=まこと、真実)を伝える」ことからか、やがて「電気通信」の略として「電信」へと代わっていった。
このとき使われた通信機とはどんなものであったのか、明石町の碑石には何の記載もない。
それは、大手町の「逓信総合博物館」に展示されている。1837年にイギリス人のホイートストンによって開発され、フランス人のブレゲが考案した「ブレゲ指字電信機」である。実物は平成14年(2002)に国重要文化財に指定されたことで、現在展示されているのはレプリカである。
写真下が最初に使われた、その「ブレゲ指字電信機」である。左が送信機、右は受信機。双方に文字盤があり、イロハなど1文字1文字が刻まれている。送信機の文字盤の針を、送りたい文字に合わせて発信すると、受信機の針が時計のように回転して、送られてきた文字を文字盤に指す、という仕組みだそうだ。当時としては、モールス信号機のように符号を覚える必要がないので、画期的な通信機であった、という。
しかし、操作は簡単だったが、送信スピードが1分間に5、6文字程度と遅く、遠距離通信には適さなかったという。よって使用されたのは明治8年(1875)ごろまでの短期間であったそうだ。
運上所は現在の税関。この脇に通信役所が設置された。横浜には現在の横浜地方検察庁に隣接して