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オランダ・カピタンたちの江戸定宿 『長崎屋跡』

[海舟] 2009年10月13日 09:30

 オランダ宿・江戸長崎屋は寛永期から嘉永3年(1850年)まで200年以上に亘り、

鎖国下、江戸で西洋に向かって開かれた貿易、文化交流の唯一の窓口でした。

 その為、葛飾北斎(江戸後期の浮世絵師 1760年~1849年)が『画本東都遊』に描

いたように好奇心旺盛な庶民・武家は紅毛の異人を一目観ようと長崎屋前に集まり

あるいは他行中足を止めます。

 

  この時代、他国との交流は対馬藩を通じての朝鮮通信使(12回往来)、薩摩藩を

通しての琉球使節(18回)、松前藩を介しての北方・蝦夷地との交流、そして長崎での

中国との非公開な貿易のみでした。

 なかでも中国貿易のもたらす多量の文物の恩恵にも拘わらず、その頻度と後世に及ぼした

影響度に関していえば、オランダ商館との貿易・交流(166回)は重要な役割を果たしました。

 

 オランダ・カピタン(商館長)、医師、通詞たち一行は江戸参府の為、年1回(寛政2年

<1790年>より4年に1回)春、長崎出島を出発し大阪、京都を経て江戸長崎屋に

宿を取ります。

 定宿・長崎屋には約20日間滞在し将軍への拝謁、各幕閣へのお礼の完了後、多くの

蘭学者、文化人との学術交流及び物品の交換の機会を持ちました。

 幕府天文方・高橋景保、同眼科医・土生玄碩、奥医師・桂川甫周、『ターヘル・アナトミア』を

訳出した前野良沢、杉田玄白、中川淳庵等さらに蘭癖大名たちも連日多数来訪しました。

 

 一方、オランダ商館側ではケンペル、ツュンベリー、シーボルトの3医師が江戸参府

に関しそれぞれ『江戸参府旅行日記』、『江戸参府随行記』、『江戸参府紀行』を著し

元禄期、安永期、そして文政期の日本の社会と文化を広く世界へ紹介しました。

 

 その中でも文政9年(1826年)のシーボルトは積極的に資料・情報を収集しまた人的

交流を広げ滞在期間を一日でも延ばそうと画策します。その工作の結果、長崎屋滞在を

通常の20日から33日へ、出島ー江戸間の総旅程日数を3ヶ月から5ヶ月に延長し見聞

を広めました。カピタン一行の総員は規定の59人を大きく超え107人にもなりました。

 

 しかし、文政11年、帰国の際、収集した品物のなかに禁制品が発見され、翌年、

シーボルトは国外追放処分、これに関連し伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』を提供した

高橋景保、将軍より下賜された葵の喪服を譲渡した土生玄碩他十数名が重い処罰を受けま

した。(シーボルト事件)

 その後、シーボルトは安政5年(1858年)締結の日蘭修好通商条約により追放解除となり

翌安政6年再来日し幕府の外事顧問に就任します。

 

 さらに翌年、即ち万延元年、遣米使節団(正使・新見豊前守正興)に随従するオランダ製

随行艦「咸臨丸」は、軍艦奉行・木村摂津守喜毅、勝麟太郎、福沢諭吉そして中浜万次郎

たちを乗せ、遂に太平洋を渡りました。

 

  これ以降、激動する幕末の波濤を越え、時代は大きく開国に向け舵を取ります。

 

          参考図書 : 片桐一男 『それでも江戸は鎖国だったのか』 吉川弘文館  

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