前回に続き、「京橋」の話。京橋は江戸初期、日本橋と同じころの創架といわれている。京の都へ向かう橋だから「京橋」と名付けられそうだ。日本橋や京橋は幕府直轄の御公儀橋として擬宝珠が施されていたのが特徴である。
現在、南北両橋詰に中央区民文化財である、明治8年(1875)に建造した京橋の親柱が残っている。橋名揮毫は明治期の詩人・漢学者佐々木支陰〔南・北町奉行などを歴任した佐々木顯発(あきのぶ)長男。ちなみに人形町甘酒横丁にある菓子舗とご関係があるらしい〕。
南詰西側(銀座一丁目交番脇)の親柱には「きやうはし」と彫られ、「きやう」は「きょう」の旧仮名遣いであることは、判別できる。現代表記でないのが古き時代を語っている。
一方、北詰東側(警察博物館前)に残る漢字の親柱とその脇にある昭和13年(1938)設置の来歴銘板をよく見ると、「亰(=京の異体字、下記注参照)橋」と刻まれている(写真)。お気付きのように、「亰」は「京」の「口」部の中に「一」が入っている。つまり「口」でなく「曰」になっている異体字である(図参照)。
〔注〕最近のパソコンでは、「京」は口でない異体字の曰の字=「亰」もフォント処理できるが、Webサイトなど機種によっては異体字が扱えない場合がある。
明治前期には「東京」の「京」を「口」でなく「曰」とする異体字の「亰」と表していたことがあった。これを「トウケイ」と発音し、この時期を「東亰=トウケイ時代」と呼ばれた。江戸時代や旧幕に対する追慕から、「京=キョウ」という上方風を嫌い、「京=ケイ」つまり「トウケイ」と読み、さらに「京」でなく異体字の「亰」を使った人々が多くいたといわれ、当時の文学や随筆などにもよく見られる。
「京」の読み方は、「キョウ(キャウ)」と読むのは呉音、「ケイ」は漢音、「キン」は唐音。「京浜=ケイヒン」などは漢音の読みであり、「北京=ペキン」は唐音である。よって「東亰(京は口でなく曰)=トウケイ」と漢音の呼び方がされた。もう死語になってしまったのだろうか。