寛政5年(1793年)9月、11代将軍・家斉、前老中首座・将軍補佐・松平定信以下
幕閣が列座するなか、鎖国下、遭難・漂流のすえ10年に亘りロシアに逗留、
首都ペテルブルグにおいてエカテリーナⅡ世に謁見、かの地の国情を見聞し
奇跡的に帰国した2人の伊勢漂流民・大黒屋光太夫と磯吉は、江戸城内吹上御所にて
尋問を受けました。
様ざまな尋問の結果、南下政策をとるロシアは、日本の社会、文化、地理等
各種広範囲に渉る情報を収集していることが判明、更にロシアにおいて周知されている
日本人として桂川甫周、中川淳庵の名が挙げられます。
光太夫の口から発せられた「カツラガワホシュウ」の言葉を聞いたとき、
当の桂川家4代・甫周国端(くにあきら)の驚きと感慨はいかばかりであったでしょう。
そして今、面前に陪席、尋問している人物こそが桂川甫周その人であると分かったとき、
光太夫もまた驚きを隠せなかったでしょう。
将軍家斉に与えた感銘は深く、列席する幕閣周辺より賛辞を得ます。
その後、この訊問は引き続き場所を他所に移し詳密に実施され、幕府及び甫周に
多大な情報を提供しました。
後日(寛政6年)、この研究成果は桂川甫周『北槎聞略』に結実します。
桂川家はこれ以降も、将軍侍医(奥医師)として誠実に役割を勤めると共に
市井にあっては自由闊達で温厚な家風の下、徳川幕府崩壊まで、江戸蘭学の宗家として
オランダ流外科の学風を守り、江戸蘭学界において大きな役割を果たしました。
参考図書 : 戸沢行夫 『江戸がのぞいた<西洋>』 教育出版
山下恒夫 『大黒屋光太夫』 岩波書店