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◆中央区 ここに歴史あり<16>~八丁堀に架かった稲荷橋の橋名標~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年12月 8日 12:00

稲荷橋」名残の橋名標(写真上)が八丁堀地区と湊地区を結ぶ「鉄砲洲通り」にある。橋名の由来は、鉄砲洲稲荷神社があったことによる。寛永元年(1624)ころ、橋の南詰東側に遷宮し、明治元年(1868)現在地に移転したという。同神社は中央区民文化財・建造物に指定されている。


0913_16_091207_inaribashi.jpg ここは堀川の「八丁堀」が流れていたところだ。亀島川から京橋川結節点までの距離が八丁(約870m)あったので八丁堀とされるが、この稲荷橋は亀島川に注ぎ込む河口の第1橋だった。明治期に八丁堀は「桜川」と名を変えた。この付近は埋め立てられたが、今でも何となく舟入らしい地形が感じ取れる場所である。


この橋は、承応2年(1653)の承応江戸図にも描かれているので、元禄期の赤穂浪士引き揚げの際は、永代橋から高橋を経てここ稲荷橋を渡ったことだろうか。また、現鉄砲洲稲荷の東側あたりには、かの長谷川平蔵が住んでいたともいわれている。


京橋・大鋸町が終焉の地となった歌川広重の「名所江戸百景鉄炮洲稲荷橋湊神社』」(写真下)を見ると安政期の情景がはっきりと映し出されている。手前の亀島川に停泊した大型船のものであろう2本の帆柱の間に稲荷橋が描かれ、左(南)には朱塗りの塀に囲まれた稲荷社がある。水主たちの海上守護の神としても崇敬された。上り下りの船は荷を運ぶ。遠く西方には霊峰富士が望める。八丁堀河口の往時の賑わいが活写されている。


かつて稲荷橋の南岸側は「南八丁堀」と呼ばれた一帯だ。『江戸名所図会』には、「湊稲荷の社」の条で「南北八丁堀の産土神(うぶすな)なり」と著している。南八丁堀にあった「鈴木学校」には明治17年(1884)に鏑木清方が入校し学んだ。


昭和40年代に桜川(旧八丁堀)は次第に埋め立てられ、この稲荷橋をはじめ5つの橋が歴史から消えていった。この「稲荷橋」橋名標は埋め立て直前のものであろうか。この橋の付近は八丁堀にしろ、湊町(湊)、入船町(入船)などの地名・町名はかつて江戸湊の水辺であったこと示している。戦後も回漕店や船具店が軒をならべていたのが思い出される。