八重洲通りを北へ行ったところに「養珠院(ようじゅいん)通り」がある(写真上左)。八重洲一丁目の外堀通りから日本橋三丁目の昭和通り手前までの東西を結んでいる。道路標識も少ないので見過ごしがちの道である。その由来は「於満稲荷神社」にある(写真上右)。家康の側室・お万の方を祀ってあり、院号が養珠院であることから、平成16年(2004)に
お万の方(1577-1653)は家康の十男である紀伊徳川家開祖・徳川頼宣(よりのぶ)と十一男の水戸徳川家開祖・徳川頼房(よりふさ)の生母である。尾張徳川家とともに御三家となった。同神社の由緒書によると、「養珠院は代々日蓮宗を信仰し、ここ日本橋あたりで神仏寄進の物資調達をしたそうで、その遺徳に恩義を寄せた商人たちがこの稲荷社を建立した」という。
江戸期の古地図では、この社は上槙町(かみまきちょう=現八重洲一丁目)に存在していたことが分かる。草分名主の檜物町(ひものちょう)の南隣で元祖下町の一帯。現在の於満稲荷はビル脇に再建されていて、人ひとりがやっと入れる狭いところであるが、旧江戸城(皇居)方面を向いているのは往時を偲ぶかのようだ。
このお万の方とゆかりの寺が
ここは何と、墓地の真下を人と車が通っている。昭和39年(1964)の東京オリンピック道路拡張工事によって墓地が切り取られる計画であったが、墓地をそのまま生かすためにその下部を掘り下げて切り通しのトンネルにして、その上に改葬したそうだ。このトンネルは「千駄ヶ谷トンネル」で、"心霊スポット"ともささやかれている(写真下左)。今の本堂(写真下右)は昭和40年(1965)に再建されたもので、その屋根には由緒の象徴である徳川葵の御紋が輝いていた。