「明治に一葉あり。昭和に時雨あり。」 その長谷川時雨が、主宰する『女人藝術』の埋草に書いたという名著『旧聞日本橋』。日本橋通油町に生まれた時雨が「アンポンタン」とあだ名された少女時代を回想したこの作品を読むと、明治初年の生家周辺の街の佇まいや周囲の人びとが生き生きと蘇えり、まるでタイムマシンに乗せられたような気がします。。今日は岩波文庫を片手に、ここに描かれたいくつかの舞台の跡を歩いてみました。
【写真上】は大伝馬本町通り。大門通りから緑橋方面を見る。工事中のスカイツリーが見える。
生家・・・日本橋通油町一番地
長谷川時雨は明治12年10月1日、日本橋区通油町一番地(現・中央区日本橋大伝馬町14)で官許代言人(弁護士)長谷川深造の長女として生まれました。通油町の真ん中を貫く本町通りは日本橋から浅草橋へ向かう江戸時代からの幹線。本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町と連なる問屋筋の多い街で、平行する石町通り(現・江戸通り)に比べ、当時街の位はずっと高かった。通油町は大門通りから浜町川緑橋までの本町通りの両側で、生家は本町通りを背中にして一つ小伝馬町寄りの小路に面していた。この小路は「うまや新道」と呼ばれ、向かいの小伝馬町側に馬車を扱う
大きな運送店があった。この店の前身は伝馬町牢屋敷御用、罪人引廻しの馬舎でした。通油町の中央あたりに加賀吉という眼鏡・硝子問屋の大店があり、憲法発布の時は町内演説会の会場になった。弁者は明治十二年官許代言人、12人しかなかった最初の仲間の一人、当時の新智識と目された時雨の父でした。加賀吉は紅葉門下の小説家・書家である山岸荷葉の生家です。
ところで、通油町といえば江戸時代では一流版元の桧舞台だった所。鶴屋喜右衛門らが店をかまえ、蔦屋重三郎も吉原五十間道から進出、為永春水ものち書肆を通油町に持っています。蔦重の店
には馬琴や一九も働いていました。『旧聞日本橋』にはこの辺について何も触れていませんが、この地のDNAが本好きのアンポンタンに遺伝したのではと空想しています。【写真右上】はうまや新道の生家あたり。
【写真右中】は大門通り。人形町方面を望む。
【写真右下】は緑橋跡。マンホールが見える。
大丸呉服店
大門通りの向こう側は大丸呉服店があった所。(現・中央区日本橋大伝馬町10) 広重の『名所江戸百景』にも描かれ、明治に入ってからも 「その当時の日本橋文化、繁昌地中心点」。大土蔵造りの有名な呉服店でした。元旦には近所の子供らにも振舞がありました。
【写真左上】大丸呉服店の跡。
【写真左下】お竹大日如来の井戸。うまや新道から二丁ばかり行くと、アンポンタンが通った源泉小学校。その少し先にある。
牢屋の原
維新直後には牢屋敷の一角を無償でくれるというのを父が断った話がありました。伝馬町の大牢は明治8年まで存在し、明治15年ごろから寺院が建立されますが、立揃わないうちは努めて土地の不浄を払おうとしたのか、小屋がけ見世物で賑わったそうです。祖母は毎晩のようにアンポンタンをお供に、牢屋の原にできた弘法さま(大安楽寺)にお参りします。
【写真左】大安楽寺。処刑場跡に建立された。
佃島の住まい
父・深造は晩年佃島の相生橋畔に隠遁します。時雨は明治37年、夫と別居し父母の家に同居します。京橋区新佃西町三丁目5番地(現・中央区佃二丁目)。ここで女流作家の第一人者になっていきます。相生橋は木橋で、橋を渡る人は少なかった。永代橋の際から門前に着く渡し船があり、門の柳が渡し場の目印でした。時雨は佃の渡しで築地居留地の女子語学校(現・雙葉学園)に通ったようです。明治43年9月、佃島は津波で大被害を被りますが、父が丹精した松がしっかり根を固めたせいか防波堤は無事でした。
【写真下】相生橋から佃二丁目を見る。門の柳・防波堤の松はもちろん今は無く、見事な桜並木が続いている。
長谷川時雨は昭和16年8月23日に亡くなりました。冒頭の「明治に一葉あり・・・」は吉川英治の弔辞にある称賛です。また、『女人藝術』から多くの女性作家を世に送り出した大功労者で、野上弥生子は「鴎外や漱石のような不世出の人」と追悼しています。現在あまりポピュラーな存在ではありませんが、中央区内には時雨に関する碑や説明板など見当たらないようですね。(そういえば、中央区観光検定のテキストにも彼女の名前は無かったような。) とても残念な気がしてならないのですが。
「夏の下町の風情は大川から夕風が上潮と一緒に押上げてくる」。猛暑の一日でしたが、夕方近くには昔と同じ涼風が感じられました。