京橋川と三十間堀そして八丁堀(のちの桜川)と楓川(もみじがわ)の4つの堀川が交わる場所に3つの橋が架かっていたので、通称「三ツ橋」と呼ばれた。現在地は、高速道路の京橋出入口付近で、銀座ラフィナート(旧京橋会館)前に「三ツ橋跡」の説明板(写真上左)が、弾正橋東詰南側に橋の由来碑が建っている。
図会を見て興味深いのは、4つの川の交差点であったが、橋が3つしかないことである。つまり楓川には弾正橋、京橋川には牛の草橋、三十間堀には真福寺橋が架かっていたが、八丁堀には架かっていなかったのだ。でも3橋だけでも4つの地点にも行けることがわかる。北八丁堀から南八丁堀へは3つ全部の橋を渡ることになるのだが。当時は対角線に架かる橋は見当たらないので、これでよかったかもしれない。現代ならば4点を結んだ橋梁を架けるのだろうか。
「牛の草橋」(のち白魚橋)も「真福寺橋」も埋め立てられた。現在、「弾正橋」(写真上右)は下の楓川は埋め立てられ、高速道路となったが、その上の鍛冶橋通りに架かっている。
旧弾正橋は明治11年(1878)にわが国ではじめて国産の鉄鋼を使った橋として有名である。その雄姿が今も現役の橋として、深川の富岡八幡宮の東、八幡堀跡に架かっている「八幡橋(はちまんばし)」(写真下左)である。鉄材は工部省赤羽製作所で製造されたもので、橋の一部に菊の紋章(写真下右)が残っている。長さ15.2m、幅2m、単径間アーチ橋で、米国人スクワイアー・ウイップルのウイップル形トラス構造。昭和4年(1929)移設、改称された。平成元年(1989)米国土木学会から栄誉賞が贈られた。現在、国指定重要文化財(建造物)になっている。