江戸時代の天下祭「山王祭」に参列していた「静御前」(しずかごぜん)の山車(だし)はじめ、10数台の人形山車の絢爛豪華な巡行が、
祭りは隔年で開催されているそうですが、今年(2010年)は開催の年にあたっていて、11月13日(土)、14日(日)の2日間行われました。 ガイドのサポーターも兼ねて「絢爛とちぎ山車祭見物」のイベントに参加することになり、 日本橋の町内が所有していた「静御前」などの人形山車【参考1】の巡行を、初日(11/13)に見てきましたのでご紹介します。 東武浅草駅を10時30分発の特急に乗り、約1時間10分で栃木駅に到着です。 祭りは14:30の開始なので、それまで街の散策をしました。 【街の紹介】
街には、いたるところに古い蔵(土蔵)が現存し、出桁(だしげた)造りの家も多く目にします。明治、大正の昔に返ったようです。
これらの多くは文化庁の登録有形文化財や県の文化財に指定されています。
街の中心には、流れの穏やかな清流「巴波川」(うずまがわ)が流れ、 祭りに来たお客を川舟にのせ、船頭が土地の民謡や蔵の話を披露しながら竿を操っていました。 川床には藻が揺らぎ、たくさんの鯉が泳いでいます。見ているとゆったりした時の流れを感じます。 【とちぎ秋まつり】
オープニング・セレモニー(出発式)で、
「今回の秋つりは、3月に近隣3町を合併し人口も倍近い14万人になった新生
また小江戸と呼ばれる
などの挨拶があり、
来賓として香取市、
中央区から区長代理の
大勢の見物客が両側の歩道をうずめる中、絢爛豪華な人形山車の巡行が始まりました。
お目当ての「静御前」の山車には、太鼓席の横に「元江戸山王祭 九番山車」【参考3】の札が立ててありました。
多数の山車が連なり巡行する様子を見ていると、江戸時代の山王祭を見たような気がします。
歌川広重の「名所江戸百景」に「糀町(こうじまち)一丁目山王祭ねり込(こみ)」の絵があり、山車が連なり、
桜田濠越しに半蔵門から江戸城に練り込む様子が描いてあります。
この「とちぎ秋まつり」を見て、当時の天下祭りで使用された高さ7mもある人形山車45基の行列がいかに絢爛豪華で壮大だったかを思わずにはいられませんでした。
そして日本橋で所有していた「静御前」の山車に会えたのも嬉しく、感慨深いものがありました。
中央区と交流のある「小江戸」 【参考1】栃木の山車
「とちぎ秋まつり」に、江戸時代の天下祭「山王祭」に出御(しゅつぎょ)した「静御前」(注)の山車は、日本橋の町内が所有していたもので、明治初期に栃木の倭(やまと)町3丁目が購入したものだそうです。 (注)静御前:京の白拍子(しらびょうし)(平安時代から鎌倉時代にかけて、歌舞を行う遊女)で源義経の寵女(おもいもの)。頼朝に捕らえられ、鎌倉「鶴ケ岡八幡宮」の舞台で直垂(ひたたれ)、立烏帽子(たちえぼし)に刀を差し「しづやしづ、賤(しづ)のをだまき、くり返し、むかしを今に、なすよしもがな」と頼朝の前で臆せず歌ったといわれます。
静御前の人形は嘉永元年(1848年)、「松雲斎 徳山」の作といわれ、栃木にある山車で最も古い人形です。
このほか三国志の「劉備」(りゅうび)、「関羽」(かんう)、「張飛」(ちょうひ)の山車もあり、これらは明治26年(1893年)、県の祝典のために日本橋本石町の人形師「三代目 原 月舟」に依頼して製作したものだそうです。
そして、「天照大神」(あまてらすおおみかみ)、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)、
「素盞鳴尊」(すさのおのみこと)、「神武天皇」、「太閤秀吉」(たいこうひでよし)、「桃太郎」の山車もあり、「静御前」および三国志の3体と合わせて県指定有形民俗文化財です。
左の写真は、「天照大神」の山車 さらに「諌鼓鶏」(かんこどり)、「弁慶」、「仁徳天皇」の山車もあり、これらは市指定有形文化財に登録されています。 これらの山車は県や市が保有しているのではなく、各町会が保有・維持しているそうです。 栃木の山車は「江戸型人形山車」(えどがたにんぎょうだし)と呼ばれ、山車を覆う幕が金糸、銀糸で、山車ごとに特徴のある絢爛豪華な刺繍がなされています。そして高さ7mほどもある山車が江戸城の御門をくぐるために上げ下げ可能な2重構造になっています。 大通りにある「とちぎ山車会館」で本物の山車や「とちぎ秋まつり」の映像などをいつでも見ることができます。 【参考2】 栃木の街の歴史 ~例幣使街道と巴波川の海運~ 栃木市は、埼玉県の 明治4年(1871年)の廃藩置県で、江戸時代の下野国(しもつけのくに)が、栃木県と宇都宮県に分割されましたが、明治6年に2つの県が合併して栃木県になり、この その後、明治17年に県庁は 「県庁堀」に県庁の名を残しています。
江戸時代には、家康を祀る日光東照宮に、江戸時代には朝廷から勅使(ちょくし)「例幣使」(れいへいし)が毎年参向し、栃木は、その「例幣使街道」の宿場町(栃木宿:第13番目)として発展し、
さらに巴波川(うずまがわ)を利用して、江戸との間を舟運(ふなうん)により物資輸送を行ったことで、幕末期には栃木商人は隆盛を極めたといわれます。 栃木の「蔵」はやはり土蔵が多いのですが、石蔵、板蔵もあるそうです。用途は倉庫のほか、店舗としての「見世蔵」(みせぐら、店蔵)があります。この栃木には日本最古級の見世蔵があるそうです。
栃木は江戸時代に浮世絵師「喜多川歌麿」と交流があり、最近発見された「鐘馗(しょうき)図」、「三福神の相撲」および「女達磨(おんなだるま)図」の3点の肉筆画を保有しています。
【参考3】 江戸時代の山王祭の山車行列 山王祭は、神田祭とともに将軍の上覧が許され江戸城内に入ることができたため「天下祭」(てんかまつり)と言われ、2つの祭りは交互に隔年で開催されました。 当時の山王祭の行列は大榊を先頭に、各町の山車(45基)、神輿(3基)が続き、このほか付祭(つけまつり)と称し、長唄や常磐津節などの音曲を伴った踊り屋台(移動式舞台)なども参加したそうです。
山王祭の山車は、1番の諌鼓鶏(かんこどり)から45番猩々(しょうじょう)の山車まであります(文久2年)が、大多数の山車は現在の 山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後次第に衰えますが、文久2年(1862年)の祭が、将軍上覧の最後の天下祭といわれます。 そして明治22年(1889年)を最後に、山車が山王祭に引き出されることは無くなりましたが、 これは市街電車の架線敷設により背の高い山車の巡行が出来なくなったとか、維持と巡行に費用がかさむなどの理由だと言われています。 そして人形山車は、次第に関東各地に分散していったようです。