南側から順に、
大きな外堀通りを通す「龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋」、
「本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋」、
そして今川小路のある「白幡橋(しらはたばし)架道橋」です。
今川小路には、車が通りにくい狭い道の両側に、昔ながらの小さな居酒屋さんが軒を並べます。
上の地図ですと、ちょうど日本橋本石町の北端(区境)と交差しているJRのガード下に「今川小路」があります。
この道路は、中央通りや昭和通りを突っ切って、昔の距離の単位で八丁(町)(約870m)ほど、ほぼ直線的に浜町方面(北東)に伸びています。
また、この道路は、江戸時代の日本橋川と浜町川を結んでいた龍閑川(江戸時代の名称は「神田堀」)といわれた川を埋め立ててできた道路です。【参考】
龍閑川は、昭和22年まで当時の「日本橋区」と「神田区」の区境川(くざかいがわ)でした。その後、昭和25年に龍閑川を埋め立てられてできた道路(龍閑新道)が、
この付近のJRガードの名称にも、龍閑川の橋名や当時の町名が使われています。
この白旗橋ガード下の今川小路には、
昭和26年頃から居酒屋さんなどが並び始め、
最盛期には30軒ほどの小さな居酒屋さんが集まったそうです。
白幡橋ガードの大きさは、幅が約10m、長さが約50mで、ここに居酒屋さんがひしめき合っていたそうですが、
最近、東北縦貫線の工事のため、今川小路の東側半分の約20mには残念ながら店舗がなくなってしまいました。
それでも今川小路の西半分には、
そして
その中の、
通信カラオケもあり、古い歌から新しい歌まで幅広く歌われているそうです。最近は勤め帰りの若い人も増えているとか。
【参考】 龍閑川と橋
龍閑川の橋ですが、武揚堂で出版した「地図物語 あの日の日本橋」によれば、明治40年頃の龍閑川には、日本橋川との合流点から浜町川の合流点に向かって順に、①「龍閑橋」、②「白幡橋」(乞食橋)、③「西仲之橋」(主水(もんど)橋)、④「今川橋」、⑤「東仲之橋」、⑥「地蔵橋」、⑦「火除(ひよけ)橋」(待合橋)、⑧「九道(くどう)橋」、⑨「甚兵衛(じんべい)橋」、⑩「竹森橋または玉出(たまで)橋」(幽霊橋)の10の橋が架けられていたそうです。
なお、()内の名称は、その橋の江戸時代の呼び名で江戸切絵図(嘉永3、近江屋五平板)などに載っています。
その中の「今川橋」ですが、江戸時代に地元の名主「今川善右衛門」から名付けられた橋と言われ、 日本橋から中山道を歩いて最初の橋が今川橋でした。
今川橋の付近には瀬戸物屋が多かったようです。(上の写真は、ちくま学芸文庫「新訂 江戸名所図会」より)
現在は、今川橋の跡に碑が立っています。
この橋のそばで焼き菓子を売っていたところ「今川焼き」の名がついたとも言われています。
大正15年(1926年)に架けられたコンクリート製の「龍閑橋」が、今川小路の道路が外堀通りに出るところに保存されています。
日本橋川の龍閑川の入り口と思われる川岸に、埋設された下水道の水門を見ることができます。