江戸期の八丁堀一帯は、与力同心組屋敷が置かれた武家地(大繩拝領地)とともに町人が暮らしていた町地でもあった。そこには庶民信仰の神社が存在していた。現在は天祖神社、日比谷稲荷神社、今村幸(いまむらさいわい)稲荷神社の3社がある。
=関連記事が2011/1/20付読売新聞都民版に掲載
碑文の由来によると、「志摩国答志郡伊雑荘の伊勢皇大神宮(伊勢神宮内宮)別宮である伊雑宮を寛永元年(1623)5月上旬、東へ下り武蔵国豊嶋郡江戸日本橋通三丁目へ間口10間、奥行12間の社地を賜わり、間口3間、奥行5間の御社を建立した。その後、寛永10年(1633)6月下旬、八丁堀松屋町(現在地辺り)に300坪を賜わり旧社を取り崩し再建した」とある。
『江戸名所図会』には「このところを磯辺横町と呼べリ、土俗、磯辺太神宮」とあり、神社の正月風景を挿絵にしている。元宮の伊雑宮は
つぎの「日比谷稲荷神社」(八丁堀3-28-15、写真中)は高橋の北西側、かつては日比谷河岸とよばれた、亀島川沿いにある。ここも祠と由緒書きがあるだけの神社。
由緒書きによると「慶長11年(1606)に江戸城日比谷御門建築のために八丁堀先の干潟を埋築、社殿を造営した。新しい土地の地主神とし祭祀されていたから、この一角は日比谷町と公称されていた。旅人御守護に霊験が篤かったので、江戸へ来た人びとの多くが当神社に泊まってお詣(まい)りしたことで、これを『旅泊稲荷』とも唱え『さばいなり』とよんでいた」とある。
3つ目の「今村幸稲荷神社」(八丁堀3-24-11、写真下)は「八丁堀駅」北東側の建物2階に存在する。江戸初期にこの地を拝領した今村家を祀ったのだろうか? 由緒書きもなく、何も掲出されていないので由来は不詳だ。幕末の絵地図にも記載がない。「伊勢屋、稲荷に・・・」といわれるほど、各地、各屋敷に稲荷社が祀られていたようなので、屋敷内稲荷だったのか。
「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9年(1632)?)には、この地は「今村伝十郎」とある。『御府内沿革図書』の延宝年中(1673-1681)図では、幸町と日比谷町を合わせた地に「今村彦兵衛」と記され、元禄年中図では、そこは「幸町」「日比谷町」となっている。もと寺地だった一帯に今村伝三郎の屋敷があり、元禄3年(1690)この屋敷地を公収し、翌同4年に、幸橋外にあった幸町(現・港区新橋辺り)が移ってきて幸町と称された。