3月11日の「東北地方太平洋沖地震」で被災された皆さまや地域に心からお見舞い申し上げます。
わが国最大のM9.0、巨大な津波の猛威で未曾有の大震災となった。全国民を挙げての救援や援助、復旧・復興に向けた支援が求められている。
忘れたころにやってくる天災。地震列島のわが国で、その歴史記録から学び取れるものはないだろうか。あらためて振り返ってみたい。
今から156年前、安政期に江戸を襲った大地震があった。安政2年(1855)10月2日、午後10時ごろ発生した「安政江戸地震」で、死者は町人・武家を合わせて1万人を超えたという。M6.9と推定され、震源地は荒川河口とも、柏・我孫子付近ともいわれて、江戸直下であった。
町奉行所の対応は早かった。八丁堀の南町奉行所与力・佐久間長敬(さくま・おさひろ)著『安政大地震実験談』によれば、発生した当夜、町奉行所で公の対策が評議、即決された。
その主なものは、「炊き出し、握り飯を配布する。宿無し者へお救い小屋を建てる。けが人の救療・手当て。日用品の確保を問屋に命じる。売り惜しみ、買占めを禁ずる。諸物価・手間賃の高騰を禁ずる。与力・同心の町内見回り、救助、取締り」などで、救済の「三仕法」として、「お救い小屋」「野宿者への炊き出し、握り飯の配布」「お救い米」を定めている。
「お救い小屋」は今でいう避難場所であろう。幸橋門外、深川、浅草、上野など5カ所設置された。前書では、「構造は丸太を合掌に組み立て、屋根はとばを葺く。入口は莚(むしろ)を下げる。中は樫丸太の上に松の板を並べ畳を敷く。これらの諸品は定請負人が常備している。千坪くらいの仮小屋は半日で出来る仕組みがある」とされる。「炊き出し」も向柳原、牛込など5カ所で、握り飯・梅干し・沢庵2切れを紙包みして、延べ20万食を配ったという。「お救い米」は寛政4年(1792)以来、火災時に支給される一般的な救助仕法で、受給者は38万人に達したそうだ。
救援活動としての「施行(せぎょう)」もあった。金銭、食品、髪結いなどを届ける「お救い小屋施行」、被災者町人に米、金銭を施行する「居回り施行」、門前地で行われる「武家・寺院の施行」などで、救済がされた。
『藤岡屋日記』に地震体験記が載っている。
「しきりにドロドロと雷が鳴り響くような音がして、家蔵は浪が打ち寄せるように揺れた。土蔵・塀・武家・町家の器物が崩れる音は、千か万かの雷が頭上に落ちたかのようで、往来に出た人は蹲ったまま動かなかった」「揺れた後、八方から出火し、我先と逃げ出した」「土蔵はことのほか被害が大きく、一瞬にして崩れてしまった」「地震の夜は大雪洞(ぼんぼり)、弓張りに火をともして大道で夜を明かした。翌3日は大揺れはなかったが、震返しがあるかもという噂におどおどした」などとある。