さきに、江戸直下を襲った「安政江戸地震」に触れた(2011/3/16投稿)が、歌川広重『名所江戸百景』は、この地震後に復興する江戸情景を描いたのだろう、といわれている。
天保13年(1842)京橋大鋸(おが)町に転居する。ここは中橋広小路の東側で、狩野四家のひとつである中橋狩野家の隣りだった。現在地はブリヂストン美術館の東南側辺りである(写真上)。
安政2年(1855)10月、安政江戸地震が発生した。住居付近南伝馬町の家屋倒壊の様子は瓦版、出版物などにも掲載された。翌年、60歳で『名所江戸百景』の制作に取り組み、2年後の安政5年(1858)に完結した。そして、この年の9月に62歳の生涯を閉じ、この名作を描いた京橋中橋が終焉の地となった。
『名所江戸百景』は119景あるが、うち1景は二代広重が描いた。このシリーズの6割近くが安政江戸地震の復興に関連したものである、と研究者は説いている。この地震で浅草寺五重塔の上部にある九輪が曲がったが、百景の「浅草金龍山」(写真下左)では、見事に修理された朱色の五重塔が描かれ、雪の景色と対比させた紅白で江戸の復興を表現した、という。ほかにも「下谷広小路」では松坂屋の情景や、「銕炮洲築地門跡」(写真下右)には本願寺修復後の様子が描かれている。
今回の東日本大震災で、安政江戸地震を取り上げた記事がいくつか目に入った。朝日新聞「天声人語」(2011/3/23)は、東京タワーの先端が前述の浅草寺五重塔九輪と同じように曲がったのを重ねあわせ、安政江戸地震の概要を述べていた。
江戸っ子広重は、定火消役を務めたからこそ、地震で崩壊・焼失する前の江戸のありし姿を投影して、復興を果す情景を、大作『名所江戸百景』に託したのであろうか。新たな江戸の世直りへの期待は、春爛漫満開の桜の風景に象徴されているようだ。西欧のジャポニズムにも影響を与えたこの作品を見つめるにつけ、広重の江戸への情熱が伝わってくる。●巻渕彰