第87回「東をどり」 が
5月27日から30日(月)まで 4日間開催されます。
案内のポスターが銀座や築地でよく目につくので、皆様よくご存知とは思いますが、
HPを拝見すると、東京新橋組合 東をどり会、そして東京新橋組合は料亭部と芸妓部からなっていることを見て、 あれっ? と思いました。組合の所在地は銀座8丁目とあります。
ふーん! 分からん! これは、調べてみようと思い、中央区観光協会に斡旋を依頼し、
東京新橋組合の頭取である岡副真吾様(Mr.Shingo Okazoe)を
料亭、金田中(Kanetanaka)さんにお訪ねしました。
私が用意したQ&Aをちらっと見て、綺麗にまとまり過ぎていますね。 と、1時間半にわたり新橋芸者の発祥の歴史から苦節の日々、進取の気風をお話いただけました。
それでは、歴史編から、
江戸時代の参勤交代で江戸詰めになった各藩の留守居役が情報交換を名目に料亭で遊んだり、飲食したのは、よく知られています。
金春屋敷跡の説明板には、「幕府直属の能役者として金春、観世、宝生、金剛の四家があり、金春家は寛永四年(1627)に屋敷を拝領したとあります。後に屋敷は麹町に移りましたが、跡地には芸者が集まり、花街として発展しました」との説明があります。 この話を持ちかけると、岡副さんがそこから詳しいルーツを教えて下さいました。
―――金春太夫が賜った居宅地を芸事のお師匠さんに貸し、そのお師匠さんたちは美しい女性が多かったので、大名屋敷の歓送迎などに呼ばれたそうです。 その金春芸能村の常磐津文字和佐(Ms.Tokiwazu Mojiwasa)さんが、当時の江戸幕府の年寄に掛け合って「酌取り御免」という許可を得、芸事を披露することとなり、それが下地となって花柳界が形成されました。―――
幕末、尊皇攘夷を胸にいだき西国から来た若い侍たちは、当時最高級の柳橋では相手にされず、新橋芸者が温かくおもてなしをしたので、ひいきにしたということでした。
それをきっかけに、明治初期には江戸の文化を引き継ぐ柳橋と新興の街 新橋、「新柳二橋(シンリュウニキョウ)」と呼ばれるまでに新橋花柳界は発展したとのことですが、ここでも秘話が紹介されました。
―――東海道線が名古屋まで開通の折、明治の元老、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨が新橋駅から名古屋駅まで汽車を一輌借りきりで新橋芸者を名古屋の花柳界に招待し、そこで踊りを披露させたそうです。 当時の名古屋は、八代将軍吉宗と争った尾張候の芸能奨励以来、商売・芸事、共に大変盛んであったそうです。
残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りは名古屋では評判が良くなく、名古屋の芸妓に、「東京から離れ遠くから聞いていたときは、さぞや綺麗なことだろうと思っていたけれど、近くで見ると大したことがない。 まるで、「岐阜提燈」と罵られ、恥をかき、大変悔しい思いをしたそうです。 肩を落として新橋へ帰ると、土地の重鎮が一年発起。全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えました。 稽古に稽古を重ね、もっと上手に踊りたいとの思いが、大正14年の新橋演舞場の建設に繋がっていったとか。 当時の最先端のレンガ造りの新橋演舞場は、東をどりの こけら落とし以来、今に続きます。―――
日本橋(柳橋)―銀座(新橋)と対抗しているようですが、お互いが切磋琢磨して発展していったとのことです。
進取の気風は、それだけでなく、着物の色、斬新な柄を取り入れるなどして、新橋芸者が流行を作っていったとか。 この時の色が、新橋ブルー、斬新な萌黄色が新橋色。 そんな明るい色の素敵な着物を着ていて、良家の子女が真似たとか。 面白い! 1冊の本になりそうです。
「東をどり」のご案内とHPは、http://www2.odn.ne.jp/shinbashikumiai/
中央区観光協会のブログにも掲載 http://blog.nihon-kankou.or.jp/kankoublog/JTA13102.php?itemid=9448
是非、お出かけ下さい。