現在の中央区には、かつてお江戸の時代に「日に千両がおちる場所」があったのをご存知でしょうか。
いずれもたくさんの人が集ること場所であることから、大量の銭が使われることを意味しています。
そんな場所が下記の三ヶ所だったのです。
(一)日本橋河岸の魚河岸
(二)日本橋堺町・葺屋町の芝居町
(三)傾城町として栄えた吉原(新吉原)
※江戸で最初の芝居小屋は寛永元年に猿若座が京橋に櫓を上げた事が始まり、その後幕府の命により禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町)、堺町(現在の人形町)へと移転している。
さて傾城町・吉原はもともと現在の人形町界隈にあったのですが、あの明暦3年(1657)の江戸の大火「明暦の大火(振袖火事)」の後、万治2年(1659)に現在の淺草裏へと移転したのです。そして万治2年には隅田川に最初に架橋された大橋(両国橋)がこの年の12月13日に竣工しています。
今日のお題「高尾稲荷神社」には、この万治2年に起こった新吉原の妓楼「三浦屋」の二代目太夫・仙台高尾の悲しいお話が伝わっています。私にとっての仙台高尾のイメージが今人気のテレビドラマ「仁ーJin」に登場する花魁「野風」とダブってしまいます。
落語の「仙台高尾/浮世床」のまくらで語られる一節。
「えー、ェッ、昔からこの、人は名を残したいと言う事を申しますが。まァ、ァーッあの人が何をしたと言う、名前が残ると言うのはこれはまァ、ァーッ、容易ではございませんが。えー徳と言うものが無いとまァ名は残らないと申しますが。花魁なぞで、ェーッ、名を残したのが随分ございますが。えー、昔はこのォ、ォーッ吉原では松の位なんと言いまして、え大変見識を売りましたものだそうで。でお客様の方も、ォッ高い金を払って、その見識を喜んで買いに行ったと言う。」なんて調子で始まる噺ですが......。
この噺を要約すると、仙台六十二万石伊達綱宗が三浦屋の万治の二代目高尾、いわゆる仙台高尾を身受して、のちに芝の下屋敷へ舟で連れていく途中、三つ又(隅田川の現在の清洲橋と永代橋の間にあった砂洲)で吊るし斬りにしたという巷説があるんですね。(左:現在の三ツ又付近)
高尾には島田重三郎という情人があったので綱宗のいうことを聞かず、意地になった綱宗が高尾の体重と同じ重さの黄金二十貫で身請けしたという俗説もあります。
高尾の遺体が数日後、この地大川端(隅田川)の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げ、手厚く葬ったといわれます。高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て、彼女の神霊・高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたというのが当社の起縁です。
稲荷社としては全国でも非常に珍しいことに、現在この社には実体の神霊(実際の頭骸骨)が祭神として安置されているのです。
高尾稲荷の場所(中央区日本橋箱崎町:IBM社屋のすぐそば))
明治のころ この地には稲荷神社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があったそうです。 その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移されました。
高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
尚、仙台高尾の墓は台東区淺草の春慶院(浄土宗)の檀家墓地の入口の脇に置かれています。