66回目の終戦記念日にあたる8月15日、朝から真夏の日差しが照りつけ、木立からは蝉時雨が響く中、正午の時報を合図に、十思公園内(日本橋小伝馬町)の鐘撞堂で、戦没者および3月の東日本大震災犠牲者を追悼するとともに、世界平和への誓いと東北復興を願っての鐘撞き式が地元町内会主催で行われた(写真上左右)。この鐘は、ちょうど300年前、宝永8年(1711)に鋳直されたもので、
十思公園に設置されたこの鐘には、「寶永辛卯四月中浣〔ちゅうかん=中旬〕 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711)に鋳造された。「石町(こくちょう)は江戸を寝かせたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止され、昭和5年(1930)に本石町から十思公園に完成した鉄筋コンクリート造りの鐘楼へ移設された。
江戸時代、市中に時を知らせるために時の鐘が設置された。初期には江戸城内で太鼓を打って時を知らせていたようであるが、やがて城外に移されたという。最初の鐘は、寛永3年(1626)創建の石町時の鐘といわれ、本石町三丁目(現・室町四丁目辺り)に置かれた。現在、鐘撞堂があった跡地あたりには、中央区の説明板が設置され、隣接した道路は「時の鐘通り」(写真下右:室町三丁目・十思公園間)となっている。
江戸期の暦は太陰太陽暦で、不定時法と呼ばれた時刻で暮らしがまわっていた。太陽の動きのあわせて、日の出からはじまり、日没までを日中としていた。したがって、冬至と夏至では昼間の長さが異なることである。1日を12区分(刻)し、日の出を明け六つ、日の入りを暮れ六つとした。
時の鐘もこれにあわせ、2時間を一刻(とき)単位として鐘を打っていた。石町は代々辻源七なる鐘撞き役が携わり、おもに周囲のおよそ400町を超える町人から1ヵ月4文の「鐘楼銭」を受け取って維持・管理されたという。江戸市内には石町のほか、上野、浅草、芝、市谷、本所など9ヵ所、あるいはそれ以上ともいわれる時の鐘撞堂があったそうだ。