画家であり詩人である竹久夢二は大きな目の可憐な少女の絵を描く事も得意でした。
呉服橋東詰には「港屋絵草紙店」の跡もみられます。
永代通りの「新呉服橋ビルディング」の前にそれが記されています。
この地は、夢二が暮らしデザインの発信をし、恋人彦乃との思い出の地でもありました。
お江戸日本橋の賑わいや風情も大好きだったようです。
でも大正12年の関東大震災が発生した直後の日記には「江戸はなくなったね・・・」と日記に記されています。
港屋絵草紙店跡地 旧呉服橋東詰2番地
大正3年~5年、夢二のデザインした小間物を売り東京の名物として知られたという。
2階にはギャラリーを併設、若き恩地幸四郎達が集まった。
震災や戦災を経験した街であるが夢二も詠んだ鈴掛(プラタナス)は再び旧店前の永代通りに茂っている。 待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな・・・・・・
上記は「榛原に宛てた夢二の手紙]
下記の封筒の裏には「野州那須温泉 小まつや 竹久夢二」とある。
消印の「3・6・13」は昭和 3年6月13日と思われる。
「はいばらの、どうさのある方を百枚このものにお渡し下され候」とある。
榛原は夢二に封筒や便箋、千代紙、団扇などのデザインを依頼していた。
夢二は自分用に榛原の和紙を好んで使用する「お客様」でもあった。
「株式会社 榛原」の取締役会長の中村晴子様にお許し頂き特別に写真を撮らせて頂きました。
夢二は彦乃と共に日本橋や一石橋、日本銀行本店、三越本店等を歩いた事と思います。
榛原は文化3年(1806)創業以来200年・・・・余り・・・
和紙の老舗として東京日本橋本店を中心に和紙及び紙製品を中心に販売をなさって居ります。
「帝国日本東京日本橋之図」(明治20年頃)に描かれています。
雁皮紙榛原」の暖簾が示すように江戸の庶民に最初に雁皮紙を売り出したのが始まりです。