日本橋の四隅に設けられた四つの広場。
その日本橋北詰東側の乙姫の広場に、名前の由来となった「乙姫の像」があります。
乙姫様といえば、羽衣をまとい、ふ~んわりと軽やかなイメージがあるのですが・・。
こちらの像は、材質が石造りであることもあり、龍神の娘らしく、堂々と玉座に座っています。
美人さん?
いえいえ、滅相もない。
神様に近い存在なのに、その御器量を測るなんて。
その玉座、海草や魚たちが形作る背もたれと貝類の装飾がついて、豊饒の海を表しています。
でも、やっぱり、硬い印象はぬぐえません。
龍宮城ならば、極彩色の宮殿の方が似つかわしいのでは。
小田急電鉄「片瀬江ノ島駅」のような門構えにして、夜は、LEDライトで華やかに周囲を彩って、鯛や平目のお姉さんが、ヒラヒラ羽衣をなびかせて、舞い踊ってこそ龍宮城。
あっ、どうも、龍宮の固定観念が、妄想をエスカレートさせてしまいました。
「日本橋 龍宮城の港なり」
そもそも、この地は、江戸・東京を通じて庶民の台所を担った、日本橋魚河岸が在ったところです。
江戸前の魚はもちろん、日本各地から集まる魚介類は、さながら龍宮の舞い踊りに似たり。
「日に千両の商い」があったという賑わい振りです。
江戸幕府の創立期から、明治維新を経て、大正12年の関東大震災を期に築地に移転するまでの間、三百有余年に渡って日本橋魚河岸は商いを続けました。
乙姫の像の前にある「日本橋魚市場発祥の地」の碑は、昭和29年に魚市場関係者によって建立されました。
新鮮な魚を扱うことを身上とした「魚河岸」の気質は、天下のご意見番大久保彦左衛門のもとで活躍した、一心太助に代表される、粋でイナセな侠気に溢れた、江戸っ子のひとつの形を作り上げました。
お城に納める魚を扱うということは、魚河岸の目と鼻の先が千代田のお城。
城の大外堀ともいえる江戸湾と、縦横に張り巡らされた掘割を素早く行き来できる魚河岸の人々。
その組織化された集団は、江戸前の魚を取りながらも、いざという時には、実戦的な海上警護の役目に早変わりするのではないでしょうか。
これって、考えすぎ・・でしょうか。
龍宮を守る鯔(イナ)たち、波に跳ね。