東日本橋2丁目ちょうど薬研堀不動院の後ろに、矢ノ庫稲荷神社があります。
此の度の"薬研堀不動院開創420年"にあわせ、新社殿が奉納されました。
奉納碑がたてられています。
縁起は前のままです。
ご紹介します。
縁起
今の隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、正保2年(1645)幕府が米蔵を建て
谷野蔵、矢之倉と称されていました。その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社を
まつりました。三社は中央に谷野蔵稲荷、左に福富稲荷、右には新左衛門稲荷からなりたっておりましたが、50年ほど経て元禄11年(1698)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に三社稲荷を一緒に移されました。御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんでそこに三社稲荷を残し今も尚東日本橋一丁目に「矢ノ庫三社稲荷」として祭られております。後年明治6年(1873)に「新左衛門稲荷」が、
昭和7年(1932)には「福富稲荷」が当町にある「初音森神社」に遷座合祀されたと伝えられ、残る
「谷野蔵稲荷」は、幾多の変遷、場所を変え現存地にその社を構えるに至りました。その名称に使われている文字もいつの頃から「矢ノ庫稲荷」と特に「庫」の字を強調した呼称に改められました。
祭神は三社稲荷神社と同様「宇賀魂命」と考えられ御神体は勿論現存しないわけですが「翁の形で
手に鎌と稲穂を持つ」と伝えられております。
昭和53年2月 矢ノ庫稲荷世話人
(現在地の地番は東日本橋2丁目です)
米蔵の件については、日本橋中学校舎の西南角に「矢ノ倉」の碑が建てられています。
右側には建てた趣旨が書かれています。
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
東日本橋1丁目矢ノ倉町会有志一同
左側には由来が書かれている。
由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之
御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末まで
この地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。
江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和50年11月3日
( この辺りは、町会はみな旧町名です。またお米屋さんも多く存在しています。)