馬込勘解由にまつわる資料は少なく、一部は「江戸東京博物館」に保管され、その全貌は未だ調査、研究中の部分も多いと言う。家康の江戸入府以来、道中伝馬役として又、町名主として家康を陰で支え、荒涼とした江戸の地を整備、発展に腐心した人物の一人であることは間違いないと思う。
同時に、宝田村(現在の呉服橋より東京駅近辺)の広大な空き地を与えられたが、その後、江戸城拡張の為、大伝馬町に移転を命じられた。今でこそ、
馬込勘解由の名は、家康の時代より明治初頭まで、ほぼ代々世襲として継承され、どの時代の馬込勘解由なのか不明な点もあるが、江戸の歴史、文化の基礎を作った中心人物として、脚光を浴びる日は必ず来ると思う。
(右下の写真は「於竹大日如来井戸跡」の石碑。これにはお竹は馬込家の下女とある。
馬込家の屋敷の広さをうかがい知る。)