平成23年10月30日、見番通りの命名のお披露目の会が開催され、行って来ました。
初めに、挨拶として、銀座西八町会の会長 高坂松次郎様による命名の経緯をご説明いただき、
次に卓話として、講師は新橋 料亭金田中の若主人・東京新橋組合頭取の岡副真吾様による幕末から今につながる銀座の芸者~見番通り命名に寄せての卓話として、軽妙洒脱なお話を頂きました。その内容をちょっと、ご紹介しますと、 新橋芸者のルーツは、
―――金春太夫が賜った居宅地を芸事のお師匠さんに貸し、そのお師匠さんたちは美しい女性が多かったので、大名屋敷の歓送迎などに呼ばれたそうです。 その金春芸能村の常磐津文字和佐(Ms.Tokiwazu Mojiwasa)さんが、当時の江戸幕府の年寄に掛け合って「酌取り御免」という許可を得、芸事を披露することとなり、それが下地となって花柳界が形成されました。―――
幕末、尊皇攘夷を胸にいだき西国から来た若い侍たちは、当時最高級の柳橋では相手にされず、新橋芸者が温かくおもてなしをしたので、ひいきにしたということでした。
それをきっかけに、明治初期には江戸の文化を引き継ぐ柳橋と新興の街 新橋、「新柳二橋(シンリュウニキョウ)」と呼ばれるまでに新橋花柳界は発展したとのことですが、ここでも秘話が紹介されました。―――東海道線が名古屋まで開通の折、明治の元老、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨が新橋駅から名古屋駅まで汽車を一輌借りきりで新橋芸者を名古屋の花柳界に招待し、そこで踊りを披露させたそうです。 当時の名古屋は、八代将軍吉宗と争った尾張候の芸能奨励以来、商売・芸事、共に大変盛んであったそうです。
残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りは名古屋では評判が良くなく、名古屋の芸妓に、「東京から離れ遠くから聞いていたときは、さぞや綺麗なことだろうと思っていたけれど、近くで見ると大したことがない。 まるで、「岐阜提燈」と罵られ、恥をかき、大変悔しい思いをしたそうです。 肩を落として新橋へ帰ると、土地の重鎮が一年発起。全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えました。 稽古に稽古を重ね、もっと上手に踊りたいとの思いが、大正14年の新橋演舞場の建設に繋がっていったとか。
最後に、素敵な舞踊が披露されました。 踊りは、長唄「雛鶴三番叟」
立方(踊り)は、喜美弥、秀千代、地方(三味線などの演奏)は、絹子・照代・由良子・晶子・史恵さんでした。 素敵な踊り、お許しを得て、1枚ご披露します。
来年の「東をどり」が楽しみだなぁ。 今年の「東をどり」のレポートは、こちらです。http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2011/05/87.html