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生誕350年ー宝井其角と忠臣蔵

[滅紫] 2011年12月17日 08:30

「元禄忠臣蔵」を観た翌日、平成中村座で「松浦の太鼓」を観ることに。「義士外伝」の中でも「四谷怪談」と並んで上演回数の多い人気演目。本所の吉良上野介の隣屋敷に住む松浦の殿様が中々討入しない大石内蔵助にいらだっていたが、聞こえてきた太鼓の音に「山鹿流の陣太鼓じゃ!」と言って指を折って太鼓の数を数える場面や「助太刀だ」と興奮して家臣に止められる場面で知られている。浅草の中村座で上演されると本所が近いので「ご当地物」といった気分になれるのも嬉しい。


この芝居の中で大きな役割を果たすのが「俳句」。発端の「両国橋の場」で雪の降る師走、俳諧師匠の宝井其角が笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾に偶然出会う。哀れな姿を気の毒に思った其角は松浦侯から拝領の羽織を与え、「年の瀬や水の流れと人の身は」という発句を向けると源吾が「明日待たるるその宝船」という付句を返して立ち去る。松浦侯は意味がすぐにわかり、その時陣太鼓の音が聞こえてくる。


「江戸名所図会」にも記されている三囲神社の雨乞いの折に作ったといわれる「夕立や田をみめぐりの神ならば」や「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」などの句を残し、蕉門十哲のひとりとして名高い宝井其角は寛文元年(1661年)近江国膳所藩の御殿医、竹下東順の長男として江戸に生まれた。初め母方の姓、榎本を名乗り、後に宝井と称した。延宝初年(1673年)芭蕉の門人となり句集「田舎句合」「虚栗」「枯尾花」などを編む。芭蕉没後、派手さのある洒落風俳諧を推進し「江戸座」と呼ばれた。其角の住まいは南茅場町の薬師堂(智泉院)の近くにあり、ここで没した(1707年)


「梅の香や隣は荻生惣右衛門」という句も「江戸名所図会」に記されていて「・・・その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ」とある。荻生惣右衛門は荻生徂徠として知られている赤穂事件の沙汰を決める際柳沢吉保に進言したといわれている。


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日比谷線茅場町駅のみずほ銀行入り口脇に「其角住居跡」の石碑がある。墓は江東区森下の長慶寺にあるそうです。生誕350年なので何かイベントがあったのでは?と検索してみたところ、昨年記念俳句の募集などがあったようです。


余談ですが「松浦の太鼓」(まつうらのたいこ)のモデルとされている松浦鎮信(まつらしげのぶ、こちらはまつらと読みます)は肥前平戸藩6万3000石の第四代藩主。芝居の中にも出てくるように山鹿素行との交流も深く、茶道石州流の一派鎮信流を始めた文化人。因みに隠居後278巻もの「甲子夜話」(大名旗本の逸話、市井の風俗等を書き綴った)を著した松浦静山(1760年~1841年)は九代目藩主。大名にしては稀な剣の達人で野村監督の名言として有名になった「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに・・」はこの静山の「剣談」にある言葉だそうです。