新しい年も松の内を過ぎた。江戸期、武家の正月行事には嗜好が凝らされていた。現在の兜町、かつてここに上屋敷を構えた九鬼家では大きな松飾りを立て、それに呪文を書いた札を正月七日間にわたり、徐々に大きくしていって下げた。最終日にはこの札を取るとその年は運を招くということで、人々は争って取りあう。「九鬼家の札切り(ふだぎり)」といわれた、江戸名物の正月行事があった。
京橋図書館『郷土室だより』第42号(昭和59.1.15発行、「八町堀襍記 二」、安藤菊二著)に、その模様が掲載されているので紹介してみたい。(注:原文を意訳・要約)
大名家の松飾りはいずれも大きく立派だったが、九鬼家のは特に堅固で、柱は8寸(約24cm)角で注連縄、海老や橙が飾られ、注連縄の中央に札が下げられる。札の裏には晴明九字(急々如律令 「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」)が書かれていた。元日は長さ1尺5寸(約45cm)、幅3寸(約9cm)くらいのものが、日々大きくなり、七日には長さ2尺(約60cm)、幅4、5寸(約15cm)くらいになった。門松の周りには6尺(約1.8m)棒を持った立ち番がいた。
七日の夕七ツ時(午後4時)になると、棒突きは門内に入り、大門を閉める。札を切ろうとする者は30-50人で組を作り、そういう組が3、4組も集まる。大門が閉まるのを合図に、注連縄の下へいっせいに駆けていき、札に飛びつく。高さが8、9尺(約2.7m)くらいあり、ようやく飛びつくと仲間も取り付いて一緒にぐるぐる回るので縄がねじれ切れる。各組は邪魔したり、防御したり、と激しい争奪戦を繰り広げる。
ついに札を取った組は、ねじ切った者を胴上げして、この周辺5、6丁をヨッショイ、ヨッショイと掛け声を出し、手を打ち、大声をあげて祝いながら巡る。札を切り取った家では、持ち船や神棚に飾り、その年は運が良いとして、友人を集めて祝宴を催す。
九鬼家の札切りは何百人も集まった名物だったという。諸藩大名家の正月飾りにはそれぞれ特色があった。佐竹家の人飾りは、松を立てず、門の左右に人を多く並べて置く。鍋島家は松飾りの上に藁で鼓の胴を作って飾る。南部家では橙、野老(ところ)、神馬藁(ほんだわら)、昆布に添えて、塩鯛を飾った。
今年は、明治145年。大名屋敷はなくなったが、正月行事や伝統の一部は受け継がれていく。●巻渕彰