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平家物語と水天宮

[北遊人] 2012年1月19日 08:30

NHK大河ドラマ "平清盛" がスタートしました。


日本橋七福神で、また安産・子育ての御宮として信仰を集めている"水天宮"は日本橋蛎殻町2丁目にあります。

 先ず東京水天宮の本殿です。

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 参道階段下に"御由緒"を書いた説明板があります。

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紹介します、

 

 <御 由 緒>

御 祭 神  天御中主大神 (あめのみなかぬしのおおかみ)

        安徳天皇   第八十一代

        建礼門院   高倉天皇の中宮、安徳天皇の母君 御名 徳子

        二位ノ尼   平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母


 当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。

久留米の水天宮は今からおよそ七百年程前に創建されたと伝えられております。 彼の壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたてて御祀りしたのが創めです。


江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。 ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人伝てにこの御利益が広まりました。 その当時の水天宮の賑いを表す流行り言葉に "なさけありまの水天宮" という洒落言葉があった程です。


明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日現在の蛎殻町に御鎮座致しました。


関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和五年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和四十二年現在の権現造りの社殿となりました。



 それでは本宮の方をネットで覗いてみましょう。

 福岡県久留米市瀬下町に在る" 全国総本宮 水天宮 "の画像です。

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 祭神・由緒の説明文を紹介します、

  御 祭 神

    天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)

    安徳天皇 (あんとくてんのう)

    高倉平中宮 (たかくらたいらのちゅうぐう)

    二位の尼 (にいのあま)

 

  由 来

寿永四年(西暦1185年)三月二十四日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。


伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験のあらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。


その頃中納言 平知盛 卿の孫(従四位少将 平知時の四男 右忠すけただ)肥後より千代女を訪ね来てこれを養いその後嗣とした。 千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。 同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコーポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。

当社は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或いは病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされた。

かくの如く御霊験あらたかなるを以て明治元年十月三日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。


 鎮 座

筑後川のほとり鷺野ヶ原に建久初年(西暦1190年)創建せられ、その後兵禍を避けて諸所に移し、還御の遺跡と伝えられる所は幾多あり。 慶長年間に至り久留米市新町一丁目に遷り、更に慶安三年(西暦1650年)9月 久留米藩第2代藩主 有馬忠頼公は社地と社殿を寄進し現在のところに遷し奉った。

爾来御神威弥増に輝かせ給い、第9代藩主 有馬頼徳公殊に尊崇せられ、文政元年11月1日江戸三田の藩邸に御分霊を勧請された。その後明治4年現在の中央区日本橋に御遷座されこれが現在の東京水天宮である。

このほか、国内・ハワイ等各地に鎮座する水天宮はすべて当社を本宮とする御分霊社である。因に当宮境内には幕末の激しい動乱期に勤皇派の旗頭として、王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者 真木和泉守保臣先生(第22代の水天宮宮司)を祀る真木神社がある。

 

 以上のとおり、平清盛 の二番目の妻 時子(二位の尼)との間に生まれた 徳子が 高倉天皇に入内し生まれたのが安徳天皇である。つまり水天宮には、安徳天皇、その母徳子(建礼門院),祖母に当たる時子(二位の尼)が祀られているのです。

平清盛は最初の妻(明子)との間に平重盛、時子(二位の尼)との間に平宗盛、平知盛、盛子、徳子をもうけています。


「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、、、、」で始まる"平家物語"はどなたも御存じと思います。


建礼門院は壇ノ浦の戦で平家が敗れた時一門の者と一緒に入水したが助けられ、京都大原の寂光院で一生を送ります。 平家物語では、後白河法皇が建礼門院を訪ねる"大原御幸"は有名なくだりです。


歌舞伎でお馴染の"鬼界ヶ島"は、鹿ケ谷事件により俊寛たちが流刑になる話ですが、御赦免船が参ります、、、。この恩赦は、安徳天皇を妊った建礼門院の安産祈願によるものとのことだった、、。

水天宮に祀られている御三人に想いを馳せながらテレビドラマを楽しみたいと思います。