関東大震災(大正12年(1923))で東京が壊滅的な打撃を受けた2年後の大正14年(1925)、復興が進む銀座の街頭で、町ゆく人々の服装などを、今 和次郎(こん・わじろう)が丹念に調査した。現在、生涯の業績をまとめた「今和次郎 採集講義 展」がパナソニック汐留ミュージアムで開かれている。会期3月25日まで、月曜休館、入館料一般500円、同館HP こちら>>。
大正14年(1925)年5月、4日間をかけて京橋から新橋までの区間で、街路を歩く人たちの服装、行動などの風俗をカードに記録した。これが、「考古学」に対し「現在を調べる」とする自身の造語、「考現学」と名付けた最初の調査「1925初夏 東京銀座街風俗記録」であった。
画面では見にくいかもしれないが、同展パンフ(写真)の中の図版は、記録風俗の調査項目である。
ここには銀座通りで調べた、男女の洋・和装比率が図示されている。男性は洋装67%、和装33%で、女性は洋装1%、和装99%となっている。特に女性のほとんどが和装だったことが分かる。よく銀座のモボ・モガといわれるのは、これより後の時期のようだ。
男性の服装を見ると、外套はスプリングコートがレインコートより多かった。ネクタイは蝶結び11%、普通89%。靴は黒靴より赤靴、短靴よりアミアゲ靴が多い―などを集計している。女性の服装では、和服のうち、9割が外出着であったという。これについて「他の町では見られない銀座の銀座たるところで、驚いている」、と論じている。
「銀座そのものは、東京の風俗カルチャーの一大中心と認められ、その伝播は東京の周辺へ、また、わが国のほとんど全地方へと行きわたる性質を持っている」、と銀座を記した。歴史には表れにくい庶民の様相、しかも銀座の街角を凝視した、大正末期の瞬間といえる。
この調査を一緒に行ったのは日本橋浜町生まれで、京橋尋常小学校に通った吉田謙吉だった。氏が調べたものに、「1931年(昭和6年) 銀座街広告細見」や「銀座の露店」などがあるという。時代をスケッチした銀座通りの今昔が見えてきそうだ。●巻渕彰