風さそふ
花よりもなほ我はまた
春の名残をいかにとやせん
数多の武将や政治家の辞世の中でも良く知られたこの一首を詠んで浅野内匠頭長矩がこの世を去ったのは元禄14年(1701)3月14日(旧暦)のことでした。享年35歳。「赤穂事件」については余りに有名なので説明の要もありませんが、お預けとなった田村右京太夫邸に浅野家用人の片岡源五右衛門が主従の暇乞いに訪れ、目付の多門伝八郎が許可、この時詠んだものと云われています。歌舞伎(元禄忠臣蔵)でも名場面のひとつです。(真偽は定かでないという説もあるようですが。・・)
内匠頭は即日切腹、御家断絶の沙汰となったため江戸藩邸と赤穂城は収公されることとなりました。
赤穂藩鉄砲洲上屋敷は現在の聖路加国際病院、看護大学辺り一帯を占めていました。聖路加国際病院の敷地内に「浅野内匠頭邸跡」を示す石碑と説明板が設置されています。
8900坪あったといわれている上屋敷から15日のうちに家臣はほとんど町中の借家に引き払ったそうです。
以下は古地図に見る浅野家上屋敷の移り変わりです。
「浅野又市」とあるのは内匠頭の幼名で9歳で家督を相続しています。
赤穂事件以降上屋敷敷地が細分されているのがわかります。最後は明治期に入っての築地居留地の沽券図です。
因みに大石内蔵助の辞世
「あら楽や思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」
浅野内匠頭邸跡:明石町10-11地域一帯