芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、京橋区入船町8丁目1番地(現・中央区明石町10,11聖路加看護大学あたり)で誕生しました。自作年譜によれば、辰年辰月辰日辰刻に生れたので龍之介と命名されました。今年も辰年、干支はちょうど二巡して生誕120年になります。
実父新原敏三は牛乳業「耕牧舎」を営み、入船町に牧場を持っていました。ここは当時築地の外国人居留地で、日本人は三軒だけだったそうです。父43歳、母33歳の厄年の生れで、迷信から捨子の形式を踏んだそうですが、生後七ケ月で母が発病、母とともにその実家芥川家に移り、のち伯父道章の養子となります。芥川家は本所区小泉町十五番地(現・墨田区両国三丁目)にあり、代々江戸城のお数寄屋坊主の家柄、養母は江戸の大通人細木香以(『孤独地獄』)に登場しますね。)の姪で、生粋の江戸人の気質と趣味が一家に色濃く流れており、これが後の彼の芸術に大きな影響を与えたことはまちがいありません。
彼は幼少年期を過ごした本所、両国を愛し、とくに大川(隅田川)には熱烈な讃歌を歌っています(『大川の水』)が、生誕の地・築地について書いたものはあるでしょうか。
生後すぐ本所に移り、直接の記憶はあるはずもないですが、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。」(『本所両国』)などと入船町は端折られてしまっています。かろうじて築地居留地を描いた銅版画についてですが、和洋折衷の美しい調和を示していると懐しみをこめた表現がありました。(『開化の良人』)
「時々私は二十年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が來ると云ふ事を想像する。---(略)--- けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に當つて、私の作品集を手にすべき一人の讀者のある事を。さうしてその讀者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気樓のある事を。」(『後世』)
生誕120年、没後85年。彼の想像を裏切って、彼を愛する読者は増え続け、彼に対する評価は蜃気楼ではなく、スカイツリーのごとく高く確固たるものになっています。生誕120年の今年、「生誕地」中央区ではとくにイベントはないようですが、愛読者の一人として、やや寒気がゆるんだ一日、生誕の地を訪れてみました。
蛇足を一つ。生誕の地は浅野内匠頭屋敷跡、生育の地の南に吉良上野介屋敷跡、と忠臣蔵にご縁があります。『或日の大石内蔵之助』執筆中、彼はこんな偶然を思い起こしたでしょうか。
もう一つ蛇足を。今年は辰年、旧暦流に三月=辰月とすると、辰月辰日は3月8日と20日。はたして辰刻(午前8時前後)に平成の龍之介君が誕生するでしょうか。
[ 写真上 ] 中央区明石町、生誕の地付近
[ 写真右上 ] 生誕の地、説明板
[ 写真右中 ] 江東区両国三丁目、生育の地付近
[ 写真右下 ] 北区田端 終の住居「我鬼窟」跡付近