美人画の巨匠、鏑木清方は幼少期を木挽町界隈で過ごした、中央区ゆかりの日本画家である。戦後間もなくの昭和23年(1948)に描いた《朝夕安居》(ちょうせきあんきょ)は、明治20年(1887)ころの下町・築地界隈の風情を回想したものであった。この作品が現在、鎌倉市鏑木清方記念美術館で開催の「収蔵品展 清方と舞台 第一期」に出品されている(写真上)。会期3月11日まで、月曜休館。
昭和2年(1927)第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した《築地明石町》は代表作。このころから関東大震災で失われた下町風俗を描く作品が増えていく、という。
戦後は、昭和23年(1948)の第4回日展に《朝夕安居》を出品。昭和29年(1954)文化勲章を受章。鎌倉に転居。昭和43年(1972)93歳で死去した。墓地は谷中霊園。
《朝夕安居》は長さ4mほどの絵巻物で、東京下町庶民の暮らしの一場面を朝、昼、夕の情景にわたって描いている。朝の景には背景に帆柱が望める町角で新聞配達少年、掃除する少女、煮豆売り、路地裏では井戸汲み、洗面する男たちの脇には朝顔が咲く。昼の場面、風鈴売りは移動屋台の中で日差しを避けているのだろうか。
夕景では、粋な女性の行水、ランプの火屋を磨く女性。店行燈を囲んで、縁台で語り合う老人、夕涼みの成人、女の子は提灯で遊んでいる(写真下:《朝夕安居》のうち夕景(部分)=同館刊行絵はがきから)。
「明治20年ころの世の姿で、場所は東京の下町、海に近い京橋区築地あたりの朝に始まって、八丁堀界隈の夜までの風物詩なのである」(『鏑木清方文集(一)制作余談』)
清方がこの絵を描いたのは戦禍が残る昭和23年、70歳のときだった。関東大震災で明治の情景が消え去り、さらに東京大空襲で多くのものが失われていったことに昔日の想いを映し出しているようだ。「明治の世に都の東南、大川の水が築地の海に注ぐまで、その一帯の下町に抱く私の郷愁は底なしの井から汲む水のやうに尽きることはない」(同著)とその心境を語っている。
昭和9年(1934)には『築地川』を刊行した。幼少期を過ごした木挽町・築地界隈は鮮烈な記憶とともに、永遠に愛した心のふるさとだったかもしれない。●巻渕彰