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◆中央区 ここに歴史あり(39) 3月10日、東京大空襲67年 焦土からの再生

[巻渕彰/写楽さい] 2012年3月 8日 19:06

昭和20年(1945310日、東京は大空襲で直撃された。ことしは67年目にあたる。この日未明、下町一帯は米軍機による襲撃を受けて一夜にして灰燼に帰した。空襲は310日だけではなかった。たび重なる爆撃で、中央区の大半は焼失して壊滅した。戦争を知らない世代が増えていく中、空襲体験者はこの日を決して忘れられない。その戦禍を示す痕跡は、今も残っている。

 

0913_39_120310tokyo_daikushu.jpg中央区ホームページ(HP)には、東京大空襲を特集した「中央区平和祈念バーチャルミュージアム」がある。中央区の平和都市宣言に始まって、空襲被害状況や学童疎開の実態をまとめた戦争の記録、写真資料や体験記を紹介する資料室、当時と現代の対比写真が見られる過去と現代―などで構成されている。

 

HPによれば、中央区では昭和19年(194411月にはじめて空襲で被災したあと、延べ15回の空襲を受けたという。空襲被害地域を表した中央区全図を見ると中心部のほとんどが真っ赤に塗られている。わずかに被災を免れた地域は、築地や人形町の一部と隅田川南東部の月島、勝どき、晴海地域となっている。

 

新亀島橋西詰南側に「戦災遭難死者慰霊碑」が設置されている写真上左)。碑文には「310日空襲により、全町焼失の際の死者を慰霊する」と刻まれ、昭和23年(1948310日に茅場町二、三丁目町会有志が建立したもの。

 

日本橋橋上にも焼夷弾(しょういだん)が襲った。現在でもその焦げ跡がくっきりと残っている(写真上右=欄干側面の茶色部)。こまめに敷石を見ていくと、弾痕なのか欠けたと思われる個所も見出される。先の石橋架橋100周年にあたって行われた洗浄のときには、その個所は除去せずに、できるだけ焼け跡は残しておいたという。

 

中央区では、平和への願いを込めたモニュメント「平和の鐘」(写真下)「平和像ニコラ」「江戸こまた」「平和都市宣言碑」=3か所を設置している。「平和の鐘」は平成元年(1989)3月、八重洲通りの中央分離帯に設置された。高さ7mでオランダ製の鐘が26個連なり、打ち鳴らされているのは中央区の歌「わがまち」とのこと。ピラミッド部分には「いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめよう・・・」と中央区平和都市宣言が刻まれている。●巻渕彰