浅草御門の説明板を探しに浅草橋へ行ってみました。(江戸地図には神田川の南にある)
交番横に"郡代屋敷跡"の説明板はあるがそれらしいものは無い。
橋を渡った台東区側に、浅草見附跡の碑があり、そのそばに旧町名由来案内として旧浅草橋の説明板がある。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。
奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋に当たることから築かれた門は
浅草御門と呼ばれた。
また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636)のことである。
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
(台東区)
神田川を眺めながら中央区側に戻ると、通りの左側一帯は東日本橋2丁目、旧日本橋両国に当たります。両国の地名の残っているのは両国橋のみかなと横を見ると郵便局がある。
その名も"両国郵便局"です。両国の名が残っていました。
靖国通り渡ろうと前方を見ますと、立派な建物が目に入ります。
通りを渡って近付きますと何やら懐かしい看板が見えます。
お店の前にはこんな看板が出ています。
お店のオーナーさんに伺ったところ、玉置薬局さんは創業明治38年とのこと。"ベルツ水"についてお尋ねすると、ドイツから東大に来られた先生の名前からとったものとのこと。
調べてみますと、Prof.Dr.Erwin von Baeltz MD PhD のようです。
ドイツ人医師ベルツ博士は、明治9年に政府の招きで来日し、東大医学部の前身である東京医学 校で26年間生理学、病理学、内科学、産婦人科学の教鞭をとり、日本医学のために多大な貢献をした、、、とあります。
"ベルツ水"は、明治16年、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見て処方したのが始まりとのこと。
また草津温泉を世界に紹介してくれた方でもあります。
いわゆる明治新政府により先進的学問、技術を日本に教えるために招かれました。
日本人の荒井花子さんと結婚し、功績に対して勲一等瑞宝章、旭日大綬章を受けられています。
博士の顕彰碑は、東大構内、同図書館、草津温泉西の河原にあるそうだ。
なお日本人に見られる"蒙古斑"の命名者である。
ハインリヒ フォン シーボルトの親友でもあったとのこと。
店内にはサイズ別のベルツ水やはちみつ、一般の薬品も、またタバコやドリンク剤も求められます。
店内は中央に階段が二つ両サイドに見え、奥には立派な調剤室があるようです。
カメラは嫌いなようですので、外側を撮影させていただきました。
アーチ型のデザインが素敵ですね。
壁の黒く汚れているのは、空襲による焼夷弾の跡とのことです。
明治を残してくれている貴重な建物です。
そういえば、シアトル在住の方が"バンクーバーの骨董屋でお宅の金看板があった"と教えてくれた
とのこと。老舗の話はスケールが違いますね、、、。