関東大震災から6年6カ月後の昭和5年(1930)に復興祭を挙行した東京は、帝都復興事業で復興公園を各地に造成した。江戸期の火除け地に相当する公園地は、防火対策と避難場所確保から設けられたものである。区内に今も残る震災復興公園地は、過密な都市にあってオアシス的空間になっているとともに、防災広場でもある。
当時の浜町公園はつぎのような状況であったそうだ。周知のとおり旧熊本藩細川邸の跡地である。
正面には噴水と噴水池。南側には児童遊戯場やプールがあり、東側は大芝生地の先にジョサイア・コンドル設計の記念塔が建つ。大川(隅田川)端は植樹され、東京湾が望める。総面積は約8600坪。
小公園は復興小学校とセットで開発された。再建された復興小学校は市内では117校に及ぶという。うち中央区(当時は京橋区と日本橋区)では25校が該当した。現在も常盤小学校、十思スクエア(旧十思小学校)などが存続し、東京都歴史的建造物に指定されている。コンクリート造りで耐火化された小学校に隣接して小公園がつくられた。
市内全体では52か所に小公園が造成された。当時の区内(京橋区・日本橋区)では以下の11公園であった。()内は隣接小学校
1.常盤公園(常盤小学校)、2.久松公園(久松小学校)、3.十思公園(十思小学校)、4.箱崎公園(箱崎小学校)、5.蛎殻町公園(有馬小学校)、6.鉄砲洲公園(鉄砲洲小学校)、7.京橋公園(京橋小学校)、8.築地公園(築地小学校)=現存せず、9.越前堀公園(明正小学校)、10.月島第一公園(月島小学校)、11.月島第二公園(月島第二小学校)
京橋公園には当時のコンクリート製2連式の珍しいすべり台が残っていたが、老朽化のため昨年(2011)撤去され、往時の写真説明板が建っている(写真下右)。現在でも復興公園の大半は、児童公園など地域コミュニティーの場や防災拠点として寄与している価値は大きい。開園当時の姿をわずかに残すのは文京区の元町公園という。●巻渕彰