恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、・・・
近代日本文学の先駆者、透谷北村門太郎は明治元年小田原に生れ、明治14年、京橋区弥左衛門町七番地に父母弟と移り住みます。父は大蔵省に出仕、母は煙草小売店を始めます。泰明小学校に転入した彼は、谷口和敬校長から抜群の才能を認められます。翌明治15年卒業後は政治家を志し、自由民権運動に加わりますが、やがてそこを離れ、キリスト教に入信、文学の道に進み、一世を驚かす詩や評論を発表しましたが、精神を病み、明治27年5月、早熟の天才は満25歳4ヶ月の短い生涯に、自ら終止符を打ちます。
弥左衛門町七番地は、現在の銀座4-3あたり。数寄屋橋から尾張町交差点に向かって中ほど左側、角地の二階建てでした。(透谷という筆名はスキヤ橋からきています。) 透谷はその後何度も転居しますが、しばらくするとここに戻ります。
泰明小にはもちろんここから通ったし、石坂美那子との結婚も、『楚囚之詩』を自費出版したのもこの自宅でした。死の前年、咽喉を突いて自殺を図ったのはこの家の物干し場でした。
透谷の文章に感銘を受け、親交を結んだ島崎藤村も、あの煙草屋の二階 にはよく遊びに行ったものだと言っています。(藤村も泰明小に学びましたが、透谷との親交はずっと後の明治25年、巌本善治の紹介で始まります。)
泰明小学校の入口には「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに 学ぶ」というおなじみの記念碑があります。中央区に残る透谷のよすがはこれだけのようですね。
(蛇足を一つ。上記の記念碑ですが、生年順、転入順、文学上の関係等々、いろいろ考えても名前の順が逆だと思うのですが、・・・)
(ついでにもう一つ蛇足を。透谷の生地小田原では、「北村透谷生誕之地」碑(浜町三丁目)、「透谷北村門太郎墓」(城山一丁目、高長寺)、「北村透谷碑」(南町二丁目、小田原文学館敷地内。藤村の奔走でできたもの。藤村筆で「北村透谷に獻す」と彫られている。) などのほか、小田原文学館では関係資料を多数見ることができます。透谷に興味ある方は必見です。)
【写真】 上から
◎旧弥左衛門町七番地(現在の銀座4-3)あたり
◎泰明小学校入口の記念碑
◎「透谷生誕之地」碑(小田原市浜町三丁目)
◎北村透谷の墓(小田原市城山一丁目・高長寺)