文化勲章・国民栄誉賞に輝く名優、森繁久彌(1913-2009)と、今も根強い人気を誇る脚本家で直木賞作家の向田邦子(1929-1981)。森繁久彌の生誕100年と「向田邦子賞」創設30周年を記念して、二人の交流と活躍をたどる展覧会が日本橋で開催されています。
【森繁久彌と向田邦子展】
6月6日(水) → 18日(月)
日本橋三越本店 新館7階ギャラリー
入場料 : 一般・大学生 800円
2009年に96歳の天寿を全うした森繁久彌と、対照的に51歳の若さで台湾の航空機事故に散った向田邦子。1959年秋頃、森繁のラジオ番組『奥様お手はそのまま』の台本を書いた向田邦子は森繁に認められ、以後彼の出演するラジオ・テレビ番組の脚本を任されてその才能が開花し、『七人の孫』、『だいこんの花』、『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』などで不動の地位を築いていきます。「ズブの素人の私がどうやら今日あるのは、フンドシかつぎがいきなり横綱の胸を借りてぶつかりげいこをつけてもらったおかげ」(『余白の魅力 森繁久彌』)と彼女は感謝しています。彼女の突然の死を嘆き悲しんだ森繁は三周忌に際しその墓前に句を捧げました。
「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」
お二人とも生れも育ちも中央区とはご縁がありませんが、向田邦子はシナリオライターを志す前は映画雑誌の編集者で、9年間在職したその出版社・雄鶏社は江戸橋にありました。1978年の第一エッセー集『父の詫び状』所収の24編(乳がん手術の後遺症のために右手が使えず、左手で書いたそうです)は『銀座百点』に掲載されたものです。また、彼女をかしらに四人姉弟は水天宮のお札のおかげでつつがなく生れたと聞かされて育ち、人形町の魅力を熱く綴ったエッセー『人形町に江戸の名残を訪ねて』を遺してくれました。
中央区とは関係ありませんが、ここで蛇足を一つ。森繁久彌は戦後まもなく世田谷に居を構えましたが、最寄りの小田急線千歳船橋駅近くから森繁邸に至る道はいつからか「森繁通り」と呼ばれていましたが、一昨年、世田谷区はこの通称を正式名称とする「命名式」を行いました。森繁邸は現在高級マンションに変わっていますが、入口に掲げられたその名前は「SETAGAYA TEVYE」。900回公演を誇るあの名舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公の名前がつけられています。
【写真上】 日本橋三越本店の展覧会場
【写真中】 向田邦子の墓(多磨霊園)
墓碑右手のブック形の碑に「花ひらき・・・」が
【写真下】 森繁久彌の墓(谷中霊園)