〔月島〕というのは、もちろん地名であり、地下鉄の駅名であります。現在の住所としての〔月島〕は、〔初見橋〕から〔月島橋〕までの間の区域に1~4丁目までの区割りで存在します。
序章でも少し触れましたが、そもそもの〔月島〕はもっと広い地域を指しました。1883(明治16)年に計画が策定されて東京湾の埋め立てが始まったときに、その記念すべき最初の土地が〔月島第一号埋立地〕と名づけられたのです。その後、埋め立て計画は進行し、〔月島2号地〕(現在の〝勝どき1~4丁目〟)、〔新佃島〕(現在の〝佃〟の一部)、〔月島3号地〕(現在の勝どき5~6丁目)、〔月島4号地〕(現在の〝晴海〟)、さらに〔月島漁業基地〕(現在の〝豊海町〟)と広がっていきました。(掲出の地図は1958(昭和33)年当時のもの)
つまり、〝佃〟を別にしたら、この一帯は全て〝月島〟だったわけです。したがって、これらの地域を区別するためには〝号数〟で呼ぶしかなかったわけで、〔2号地〕とか〔4号地〕とか呼び習わしたそうです。今でも土地の古い人は、〔2号地〕〔4号地〕と言ったりします。(〝4号地〟は1937(昭和12)年に〝晴海町〟と命名されました)
その後、1965(昭和40)年に住居表示が一新され、現在の地名になりました。〔月島〕の地名の範囲はやや狭まったわけです。
このときに、〔月島1~4丁目〕に整理されたのですが、それ以前は、〔月島通り〕とか〔西仲通り〕とかいう地名があり、大きな道路の両側が同じ町内という区割りになっていました。
かつては多くの下町では通りの両側を一つの〝町〟とする区割りが一般的でした。江戸時代の長屋に見られるように、路地を挟んで〝向こう三軒両隣〟という考えが普通だったんですね。実際の生活感覚に合っていたのだと思います。
新しい住居表示は欧米の〝ブロック〟という考え方に準拠して町を区割りしました。そのために、道路の向かい同士が〝他所の町内〟となり、背中合わせの家屋が〝同じ町内〟となったのです。郵便などの利便性を重視したといいますが、今となってはこれでよかったのかと思うところはありますが・・・。
ただ、今でも月島の町内会は古い付き合いを大切にし、昔の区割りに近い形で町を区分けし、〔月島○の部〕(○は漢数字)という名称でコミュニティーを形成しています。
〔月島〕がかつて広かった名残りが公共施設の名称に見られます。〔月島警察署〕は〔勝どき6丁目〕にありますし、〔月島運動場〕は〔晴海〕にあります。〔月島第二小学校〕の所在地は〔勝どき〕、〔月島第三小学校〕は〔晴海〕なんですね。さらに民間施設でも、序章で採りあげた写真にも写っている〔三菱東京UFJ銀行月島支店〕(元・三和銀行)は堂々と勝どき駅前に建っています。
このように歴史をはぐくんできた〔月島〕の土地は今大きく変わりつつあります。古い家屋がどんどん消え、マンションが林立するようになってきました。それでも面々と残るこの町の風情を大切にしたいと思います。
引き続き、〔月島〕の魅力をお伝えしていきますので、よろしくお願いします。