先日、機会があって、戦前から築地に住んでいた方に、昔の写真を見せていただくことが出来ました。
中でも興味深かったのが、『終戦直後』に「海軍軍医学校(現在のがんセンター)」の屋上から撮影したものです。
当時この建物は進駐軍に接収されていて、一般の日本人は入れなかったので、このアングルでの写真は、大変珍しいのだそうですが、たまたま知り合った進駐軍の兵士が「キミの家の近くを撮ったヨ」と言ってくれたものだそうです。
一枚目は、屋上から左側に銀座方面を写したものです。
左端の像は、有栖川宮の銅像で、かなり大きかったようです。
築地川はまだ埋め立てられておらず、右下の方には、今は無くなってしまった「北門橋」があり、真ん中の橋が「采女橋」です。
現在でしたら、その先には、時事通信社をはじめ、沢山のビルがあるのですが、この写真では、高い建物はほとんどなく、更地になっている所もあり、その先の昭和通りどころか、銀座4丁目交差点の「和光の時計台」まで見渡す事ができます!
これは、空襲で焼けたと言うよりは、延焼を防ぐ為に、『強制疎開』ということで、事前に取り壊された建物もかなりあったのだそうです。
左:終戦直後の采女橋から銀座方面 右:現在の采女橋から銀座方面
二枚目は、今の「築地社会教育会館」の玄関辺りから、晴海通り方面を見ているアングルで、左を真っ直ぐ行くと銀座になります。
手前にある川は、その後に埋め立てられ、その場所に築地社会教育会館が建ったわけです。
『築地は、聖路加病院があったので、空襲から免れた』と言われていますが、銀座方面を狙った焼夷弾が、狙いがそれたり、風に流されたりして、かなり落ちてきたようで、『この通りを、シュルシュルと火が走っていったのが忘れられない』と、写真を見せてくださった方がおっしゃっていました。
左:終戦直後の築地社会教育会館前 右:現在の築地社会教育会館前
戦争が終わって67年。
こうしたお話をしていただける方も、高齢になられてしまいましたが、自分達の住む街の歴史を、しっかりと、受け継いでいかなければならないと思った次第です。