ときどき立ち寄る築地本願寺の境内には親鸞聖人像のほかに色々な碑や塔がある。本願寺のパンフレットによれば芭蕉句碑、土生玄碩墓、間新六供養塔、森孫右衛門供養塔、酒井抱一墓、九条武子夫人歌碑、そして親鸞聖人像がある。
本願寺のパンフレットにはないが、片隅には日清戦争、日露戦争の戦没者の供養塔や台湾での物故者遺骨安置所などもある。児玉源太郎が寄進した凱旋釜の碑がある。と云っても釜らしきものは見当たらない。これらの碑には中央区の説明板もなく来歴は詳らかではないが、是非、説明板を検討してもらいたいと常日頃思っている。
さて九条武子は柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された歌人であるが、何故、ここに歌碑があるのかに興味を持って調べてみた。
武子は西本願寺第21代法主大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれている。1909年には公爵家出身で正金銀行に勤務する九条良致と結婚し夫の勤務先兼留学先であるロンドンに渡るが翌年、単身で帰国する。そのころから佐々木信綱に和歌を学ぶようになる。1911年義姉・大谷籌子裏方の早世に伴い、30歳の若さで仏教婦人会本部長に就任する。その頃、仏教に基づく教育との視点から、現在の京都女子学園・京都女子大の設立にも参画する。
1920年には夫が帰国し現在の新宿区下落合に居を構え、夫婦同居が実現される。1923年の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、同地に臨時救済事務所出張所をおいて救済事業の陣頭指揮をした。また、上野公園に託児所、日比谷公園には臨時の診療所を造った。これが現在の「あそか病院」の基礎となった。
九条武子は西本願寺の大谷伯爵家の出であり、大正時代の代表的麗人であるだけでなく、女流歌人であり社会事業家であった。築地本願寺の九条武子夫人歌碑の和歌は
おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや(築地本願寺歌碑)
1928年震災復興事業での奔走の無理がたたのか、敗血症発症により42歳の若さで世を去っている。