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人形町の芝居町跡

[北遊人] 2012年10月11日 09:00

 人形町交差点西側歩道を北へ少し歩くと、植え込みの中に"堺町・葺屋町芝居町跡"の説明板が見えます。

Sibaimachi 009.JPG


 説明文を紹介します

  堺町・葺屋町芝居町跡

 所在地 中央区日本橋人形町三丁目二~七番地域


 堺町は慶長年間(1596~1615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦二年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。

 江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑っていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には禰宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(1651)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永十年に都座が、寛永十一年には村山座(後の市村座)が創設されました。

 歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において、元和三年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年禰宜町移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。

 堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保十三年(1842)から翌十四年にかけて、猿若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目辺り)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。

 近年、日本橋人形町三丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。

平成二十三年三月  中央区教育委員会


東都名所図が載っていますので紹介します。

手前が東堀留川、通り奥が中村座でしょうか。

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 路地を歩いてみましたが170年も経た今日、すっかり変わってしまいました。

しかし、残された痕跡を二つ紹介します。

この説明板の通りの反対側に、"三光稲荷神社"があります。

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人形町通り側路地入り口に"三光稲荷神社 御由来"の説明板が見えます。

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紹介します、

 三光稲荷神社  御由来

 祭神  三光稲荷大神

      田所稲荷大明神

      大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目

      になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。

 創建  中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎 が伏見より勧請したと

      伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記録があるところから、

      それ以前と推測される。

 拝殿  右上の額「日本橋区長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤

      氏の揮毫である。

 江戸時代

      近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃

      の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が

      登場するところとなった。

      古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願す

      れば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物

      は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。

  この文言から嘗ての芝居町の様子が偲ばれます。

 

  次は"出世稲荷"です。

 こちらは、旧芝居町側人形町三丁目から外れ堀留一丁目に入ったお店の壁に見つけました。

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紹介します、


   出世稲荷の由来

 江戸時代は当稲荷敷地は新材木町十六、十七、十八番地稲荷です。

 その昔徳川家康入城天正八年(1590)頃此の付近は芝原宿という村落でした。

 杉の森林の多い所です。

 江戸城拡張以来江戸町割当地慶長九年(1604)頃材木置場が多い所から新材木町と

 町名が出来た由。 尚元和三年(1617)親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮屋敷内に有り 京都伏見稲荷より祭神を戴き守護神として祭りし後当地世話人一同が現在迄守護致して居ります

 当社は明暦三年(1657)江戸大火振袖火事、安政(1854)大地震、明治六年(1873)大火、関東大震災大正十二年(1923)、近くは昭和の太平洋戦争まで本尊災禍を免れました。

 関東大震災の時社殿焼失致し現在堀留町一丁目十番地椙森神社の拝殿取壊し材料(杉の木)削り直し昭和六年(1874)に落成し現在まで数多くお信仰者があります。

 江戸時代初代市川団十郎が日参し名をあげた由、尚当地より出世致した商店、芸能関係、各個人等数多く出ております。

 初午毎年三月岩代稲荷と合同で堀留町一丁目町会応援にて執行いたします。

 応長見聞集寛永図経、先祖の言い伝えとの事

   昭和五十六年五月吉日(1981)

出世稲荷世話人一同


 初代市川団十郎ほか多くの方がこのお稲荷さんを信仰し出世していったようです。

 此の路地を少し進むと幟と標示が見えます。

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本殿はこの奥にあります。

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"岩代稲荷神社"と"出世稲荷大明神"とあります。

お参りされる場合は、集合住宅の奥に祀られていますので気配りの程を。